神話の里から長崎へ

遡及日誌1日目
ぎりぎりまで仕事してそのまま自宅に戻らず東京駅から6時過ぎの新幹線で小倉まで。


東京駅で飛び乗ったのがどこ行きかもわからず、新大阪でレールスターに乗り換えて小倉入り。九州に行くことを決めたのが2日前だったので、飛行機を手配してもシーズンオンで座席なんか無いだろし時間の無駄と思って新幹線を選びました。新幹線も指定をとってる余裕が無く自由席狙いです。空いてなかったらデッキに座っていくつもりで尻の下に敷くための夕刊を一部買いましたが、あっけなく座れました。

深夜の小倉駅日豊線に乗り換えです。九州の東側を走る日豊線には宮崎行きの寝台の無い夜行特急が走ってます。で、それに乗りました。もちろん指定席なんか手配してませんから自由席です。座れなかったらやはりデッキで寝るつもりでしたが、幸運にも座れました。途中、延岡で目が覚めた以外はほぼぐっすり。


遡及日誌2日目

朝早くの7時前に宮崎着。こんな時間どこも開いてないだろうと思って、とりあえずさらに南下しました。
目指すは青島ということろ。

海の中の小島ですが架橋されてて歩いて渡れます。

こんな神社があります。青島神社です。宮崎っていうことろは日本の神話にまつわる土地が多いです。ここ、青島は海幸彦山幸彦の話に関係してきます。
コノハナサクヤヒメ(富士山の神様)の子がホデリこと海幸彦、ホオリこと山幸彦の兄弟です。兄の海幸彦は海で魚をとり弟の山幸彦は山で狩りをしてたのですが、魚を釣ってみたくなった山幸彦は道具の交換を提案します。道具を大切にしていた海幸彦は渋るのですが泣いて頼み込み、釣り道具と弓矢を交換します。しかしさっぱり釣れず、さらに釣り針を海中でなくしてしまいます。そのことを山幸彦は正直に海幸彦に告白するのですが、大事な道具を無くされたほうは簡単に弟を許すことはできません。山幸彦は広い海の中から釣り針をさがすこともできず、仕方なく自分の剣をつぶして釣り針を作り許してもらおうとしましたが海幸彦はそれでも許しませんでした。嘆き悲しんで海辺にたたずんでいると潮の神シオツチが現れ、彼を小船に乗せて潮の流れに乗せて海の神ワタツミの宮へ誘導します。山幸彦はワタツミの宮でワタツミの神の娘のトヨタマヒメと結婚までするのですが、とある日に山幸彦は自分のいきさつをトヨタマヒメとその父のワタツミに話します。それを聞いたワタツミは海にいる魚という魚を呼び集め、釣り針を飲んだ魚を捜索します。タイが飲み込んだことが判るとワタツミはそれを取りそして山幸彦に渡し、海幸彦に釣り針を返すとき後ろ手に渡しながらさらに針に巧くいかないように念ずるようにアドバイスをし、さらに海幸彦が巧くいかなって争い事になり襲ってきたときのために潮を満ちさせて溺れさせたり潮を引かせて自在に助けたりできる二つの珠を山幸彦にさずけます。
針とその珠をもって海幸彦に逢うために上陸したのがここ、青島です。
で、神話の上ではワタツミのアドバイスどうりのことを山幸彦はして海幸彦はなにをやっても巧くいかなくなり、結果的に争いが起き、海幸彦は山幸彦に服従します。
なんかこうどこか壮絶な兄弟げんかの復讐譚なんすけど、個人的にはわがままな弟の要求に渋々応じて渡したら大事な道具を無くされちまってさらにひどい目に遭う海幸彦の受難が気になりますが、神様の話というより生々しい人間の争いの話に近いかも、と思いました。日本の神様ってのは実はほんとは人間くさいのかもしれません。神ってことばに、私はとらわれてるのかも。

本殿から元宮への参道は薄暗かったです。で、青島神社は亜熱帯植物に囲まれてます。神田明神靖国とかの東京の神社なんかを見慣れてるほうからすると、不思議な空間でした。

青島の周囲は砂岩が海の波で浸食されて、これまた不思議な光景を作り出してます。たしか鬼の洗濯板っていう名前がついてる看板を見た記憶があります。宮崎とは海を隔てた反対側の高知県佐清水の竜串の風景にちょっと似てます。



青島への列車は本数が多く有りません。で、あまり長くは滞在できず。時間の少なさに我泣き濡れて蟹とたわむる、なんて本気でしてたら約2時間くらいあとになっちまうので、青島参詣で気が済んだので引き返します。蟹がいたのかどうかは判りません。

宮崎県庁です。別に観光名所でもなんでもないはずなのですが、私のようなミーハーな観光客が10人くらい居ました。県庁の隣に県営の物産館があり、開店前にもかかわらずそこはさらに人が多かったです。県外の観光客に県産品をどんどん購買、消費してもらう、という東国原知事の思惑はヒットしてるようです。

知事は正面玄関に鎮座ましましていました。広い額の部分に触れると幸福になる、っていう都市伝説があるそうです。



宮崎から電車で延岡へ向かいました。およそ一時間半くらい。この電車がまたなんというか個性的なデザインです。
延岡は化学繊維の街で、バスの行き先にレーヨン前、なんて書いてありました。その延岡でバスに乗り換えて高千穂というところへ向かいます。これもやはり一時間半くらい。


高千穂は山の中の町です。この日、宮崎も延岡も晴れてたのですが高千穂町内に入ると同時に雨が降りはじめました。でも終点のバスセンタに着くと一応雨が上がったので、レンタサイクルを借りました。
と、ここまではよかったのですが、山間地域の天候を甘く見てました。自転車を漕ぎはじめて5分したところで、こんどは「バケツをひっくり返したような雨」が降ってきて、雷もなりはじめちまい、さらには傘も風で壊れる始末。仕方ないので橋の下で雨宿りをして30分くらいしばらく様子をみて、あまあしが弱まったところで傘とポンチョを買いにゆき、いったん宿に荷物を置きに行きます。そこで天気の事を訊くとこんな天候でレンタサイクルなんて狂気の沙汰だよ、なんて忠告をうけてレンタサイクルで廻ることを断念しました。
仕方ないのでレンタサイクルを返却しに行き、町営バスをつかって8キロ先の天岩戸神社へ。


雨が降ったあと、その地上に降った雨が水蒸気となってたちこめて霧状になる、さらにそれが雲状になって上昇、なんてのがいたることころで目につきました。レンタサイクルをあきらめて正解だったようです。案の定、雨は弱まったり強まったりを繰り返して降ってました。

神話の中でも天岩戸の話は有名かもしれません。姉にあたる日の神アマテラスが弟であるスサノオの乱行ぶりに一時期は寛容であったものの、あまりにも度が過ぎてきたので天の岩屋の戸を開き中に入ると戸を閉めて立てこもってしまった話です。

その天岩戸の話に縁の場所がここ、天岩戸神社です。西宮と東宮があり、写真の西宮はそのアマテラスが隠れた天岩戸がご神体です。東宮はアマテラスが祀ってあります。
お恥ずかしい話ですが、天岩戸の前でにぎにぎしくしてひきこもってしまったアマテラスがでてくるように神様が踊ったりってのは知ってましたが、高千穂に来るまで私はてっきり女性がストリップを踊ってると長いこと勘違いしてましたしアマテラスって男だとおもってました。アマテラスって女性みたいで、アマノウズメが踊ったのもストリップじゃなくってちゃんとした踊りのようです。

日の神アマテラスが隠れてしまったことにより高天原はあっという間にまっ暗やみになりました。で、どないしたもんやろか、と神様が集って会議を開いたのが天岩戸のすぐそばの天安河原というところです。

暗くてわかりにくくて恐縮です。天安河原には社もあります。わかりますか?誰かがやりはじめたのだと思いますが、賽の河原のように石を沢山積んであります。

近辺に無数にありました。神様のかわりなのか。


神話とは関係ない高千穂峡にもよりました。

ごらんのように霧状の雲の中です。晴れたらどんなふうになるのかわかりません。ちょっと薄暗かったです。雷もごろごろなってました。ついてない、とおもうべきか、混沌とした神代の昔の神話の世界にふさわしく幻想的と思うべきか思案のしどころです。

有名らしい真名井の滝。

晴れてたらそんなことないでしょうが豪雨の後なので濁ってます。


高千穂峡そばの店で、わけあって贈答につかう焼酎を購入。
で、酒屋さんで「宮崎ってなんの焼酎が有名なのか?」と質問をしたら宮崎の農産物の事情を説明してもらえました。宮崎は確かに焼酎の産地だけど、鹿児島の芋焼酎の芋のような全県で作ってる焼酎の原料っていうのがなく(強いていえば宮崎発祥のものとしてそば焼酎がありますが全県的に作ってるわけではない)、穀倉地帯である延岡市宮崎市なんかは米や麦がとれるので米や麦の焼酎が主流で高千穂のある山間部の北部は米や麦のほか特産のそばをつかった焼酎を醸造し、南部はシラス台地の影響で麦や稲作ができないのと島津藩の影響で鹿児島と同じ芋焼酎なんだそうです。
地図を見せて貰いながらなるほどなー、と妙に納得。宮崎も宮崎県というひとつの単位でくくれるほど単純ではないようです。
その後、高千穂町内の食堂で宮崎北部名産のチキン南蛮を食しました。ほんとのタルタルソースの載ってるやつです。ちなみに近所の西友だとチキン南蛮にタルタルはのってません。食べてみて判ったのですがタルタルって有ったほうがいいっすね。



雷が鳴り、強い雨のなか高千穂神社ということろへ移動。ここでは高千穂に古来から続く神楽を抜粋で鑑賞。

ちなみに神楽殿には一番乗りでした。がぶりつきで見学してます。
正式な神楽は収穫への感謝と翌年の豊穣を祈願して奉納するためのもので毎年11月末から2月上旬にかけて高千穂町のあちこちで、夕方から始まり翌日の昼前まで舞い続けられるもの。ほんとは33番までありますがここでは天岩戸に関する3つの舞と、イザナギイザナミにまつわるものの1つの計4つを抜粋して毎日やってます。イザナミイザナギにまつわるものは夫婦和合の話です。酒造りを一緒にして抱擁したりしますが、ちょっとだけエロっていう部分も有ります。天岩戸の話っていうのはさっきも書きましたが、スサノオの乱行ぶりに嫌気がさした日の神アマテラスが天岩戸に引きこもったので高天原は闇に閉ざされてしまい、困った八百万の神々が天安河原にあつまって対策会議を開き、天岩戸の前で宴会を開くことになります。芸達者のアメノウズメが賑やかに舞い踊り宴会をはじめ、そのにぎにぎしさに興味をしめしたアマテラスが岩戸を少し開いたところを力自慢のタヂカラオが岩戸を開け投げ飛ばし日のひかりが戻ったっていう話です。

誰もいないのでゆっくり見学できました。奥に有るのは(そうはみえないかもですが)天岩戸です。で、神域を示す「しめなわ」がありますが、高千穂独自のものです。七、五、三となってまして、天神七代、地神五代、日向三代を意味してるそうです。えっと、ものっそ簡単に説明するとアマテラスなんかが出てくる前のイザナギなどの神様が七代、アマテラスなんかの神武天皇以前の天皇家に関する神様が五代、日向の神話に出てくる山幸彦(ホオリ)なんかの神様が三代、あってそれを象徴してるわけです。

えっと紙かざりがありますが、これを現地では「えりもの」といってました。高千穂でも地域によって型紙違うそうなのですが、ようは切り絵です。土とかの文字や鳥居や十二支等の切り絵があるんすけど、わかりますか?陰陽五行と関係するのかも。

これ、説明不要かもですが、太陽と月です。で、そのまわりの「えりもの」は雲を意味してるらしい。


8時に開始。開始直後にお祓いがありました。一応、神道にのっとった儀式のひとつなので、あたりまえなんすけども。

鼻先30センチのところに人が神楽を舞ってて、で、写真オッケイなんすけど、積極的にはカメラをむける気にはなりませんでした。歌舞伎座に行くようになってからなんとなく所作とメロディで踊りがなにを意味してるのかってのがうっすら判るようになってたのでけっこう面白かったです。

この日は高千穂町内のユースホステルに宿泊。
早く寝ればいいのに同室の人と夜遅くまでいろいろ語ってしまって就寝がおそくなる。

遡及日誌3日目
朝6時おき、6時半出発というきわめて健康的な生活です。

次の日の朝もいまいちぱっとしない天気です。で、普通の生活道路をあるいてて挨拶すると軽トラックから声をかけかれ、雑談の後にくしふる神社へ行きますっていうと親切に道順を教えてもらえました。ただし宮崎弁です。正直、高知弁より聞きやすかったっす。で、社交辞令なんだろうけど、夜神楽のときにいらっしゃい、と。たしかに面白そうなんすけど、うーん、気軽にこれる距離じゃないんすよね。


くしふる神社です。えっと、神社の場合どこからが神域かわからないので鳥居を写してます。高天原の神様が地上を統治するために代表としてアマテラスの孫、ニニギを派遣するのですがそのニニギが降り立ったっていうのがこのくしふる神社のある山のあたりです。その山の中腹に神社があります。大きな声では言えませんが、普通の神社と同じに見えます。もっとも、目に見えるだけで判断することが良いとも思えないっすけど。
で、余談ですがニニギが降臨したところってのは、宮崎県南部の霧島のあたりじゃないかって言う説もあります。



宮崎銀行高千穂支店。どうでもいいですが、この奥に神様が居てるのでしょうか。
このあと、高千穂からバスに乗って熊本へ。どうでもいいですが太陽を拝むことなく、高千穂を後にしました。アマテラスに嫌われてるのかもしれません。


熊本ゆきのバスは阿蘇山の麓を走行してるはずなのですが、曇ってて阿蘇は完全に見えません。休憩地で近くに居た地元の人と思しき若い女性に聞くと「ほんとはあっちなんだけど」とい指差す方向をみても雲だらけ。

で、走行中、あれかなーと思って撮ったのがこれ。ぜんぜん違うかも。



熊本から特急で鳥栖、そこからさらに乗り換えて長崎を目指します。

長崎行きの特急は白い「かもめ」号(かつては赤いかもめってのもあったのです)。車内は椅子が革張りでちょっとびっくり。


長崎では幾つか建物を見学。
まず最初に旧香港上海銀行長崎支店へ。

香港上海銀行HSBC)は外為の世界では有名で英国系の銀行です。長崎は貿易港ですから為替の需要があったので支店がおかれてたわけです。この建物100年以上前のもの。
ちなみに内部は長崎港に関する資料が中心。ここに来るまで気がつきませんでしたが、長崎の場合、東京より上海のほうが近いんすよ。戦前は上海まで航路で27時間、東京は鉄路で29時間かかってました。いまでも飛行機でもフライトは羽田まで100分、上海95分です。

ついで大浦天主堂

もともとは幕末に長崎に居留する外国人のための教会として建てられたものです。ところがある日、日本人が数人やってきてマリア像が天主堂にあることをみてフランス人司祭が祈りをささげているところからこの教会堂がカソリックであることを確信しそのフランス人神父に自分たちも何代にもわたって信仰を守ってきたカソリックであることを告白した、っていう有名な話がここにはあります。これをキリスト教の人たちは信徒発見という言い方をしています。いまでも漢字で天主堂って建物の正面に大書きされてるんすけど、これは当時、禁教下で信仰を守っていた人たちが来やすい様にここにカソリックの教会がありますよ、って知らしめるために書いたもの。

松山市円明寺っていう札所があるのですが、そこには変わった白い観音像というか、マリア像とおぼしきものを刻んだ江戸初期から伝わる白いキリシタン灯篭がありました。外見も十字架に似せていますが十字架の左右を短くしてて説明を読むまでそれがキリスト教関係のものって判りませんでした。写真を撮ることに妙に抵抗があったので写真こそ撮らなかったのですけども。で、キリスト教弾圧を受けた潜伏したクリスチャンたちが四国遍路の姿を借りて密かに拝んでた、っていう説なんすけど、その構築物を許容した円明寺もすごいし見過ごしてた松山藩もすごいとおもっていました。四国を打ち終わってからずっとひっかかってて禁教下のなかで信仰を守ってたキリスト教徒というものに興味をもち、実は長崎へきました。

大浦天主堂のとなりに旧羅典神学校という建物があってそこに禁教下でのキリスト教徒の資料がかなりありました。
キリスト教が禁教となり、教会は存在せず、また本来なら行事をつかさどる司祭たちは既に追放令がでてましたから日本におらず、改宗せずに残されたキリスト教徒たちは全て自前でやっていました。手作りで信仰に則った暦を作りそれを代々引き継ぎをし管理して、それを厳格に守って信仰を維持していました。その暦の実物がありました。またちょっと痛切なのは葬式に関する資料です。禁教下の当時は寺の檀家として誰もが表面上は仏教徒として生きてたわけですが、葬式も仏式です。で、仏式のほかにひそかにキリスト教に則った葬式もひそかに挙行し死んだ者を最後にはキリスト教徒として天に昇らせたのですが、そのときに詠んだと思われる式の祈りの文書も残っていました。もちろん暦も葬式の文書も両方とも秘かに伝承されてきたものです。
これほど強い深い帰依、信仰にかりたてるものってなんだろうってことをちょっと考えちまいながら資料をみていました。

そのあと天主堂のなかでしばらく佇んでいました。観光客もけっこういますが、たぶんキリスト教徒と思しき人もいました。どういえばいいのだろう、二種類の人が居たのは確かです。
で、興味深かったのは観光で訪れたっぽい近くにいたカップルの若い女の子のほうの「なんだか教会みたいー」という言葉。思わずそっちを振り向いてしまったのですけど、結婚式場によくある純白のチャペルのような建物ではありませんから彼女にとって想像していた教会とちょっとちがったのでしょう。天主堂のそばの大浦教会は地下に土産物店を誘致してますがそれを知ったらその女の子はもっと幻滅するかもしれないな、と思いました。


教会とか神社という信仰の場所というのは、なんであるのでしょう。石鎚信仰の盛んな愛媛で鳥居の向こうに石鎚山があるだけのところや、潜伏していたクリスチャンの信仰の資料を先にみちまったせいか、いろんな意味で考えさせられました。結果論的には建物が無くとも信仰は可能だし伝承も可能です。なんで目に見えるかたちを人間って求めるんでしょう。信仰って、建物なんかのかたちにあらわさなくてもいいものでは、っていえば、なんかそんな気がします。でも、信仰を告白できる場所、信仰の支えとなる場所ってのはやはり必要なのかもしれません。それこそ人間って弱いからなのかな、と思うのです。仏様じゃないし、神様でもないから強くも無く、自らの信仰を再確認する場所とか、目に見える信仰の証のものが欲しくなるのかもしれません。


で、私なんかは弱い人間なので目に見えるものが無くても信仰を守りぬいた人々の存在が、すごく強い人たちのように見えました。




観光客っぽく、ちゃんと異人館も見ました。お!と思ってこれを写メを撮ってたら、考えることはおなじ。振り返ったら数人デジカメやケイタイを構えてました。



浦上教会です。
浦上という場所は禁教下でもキリスト教徒が信仰を守っていた場所です。で、大浦に天主堂が出来たあとに、幕末の浦上の人たちはキリスト教徒であることを公然と表明するようになりました。当時は寺の檀徒となり寺の宗門改帳に捺印し仏教徒であることが建前としては必須だったのですが、それに抵抗し寺との縁を切りはじめました。で、長崎奉行とそれを引き継いだ明治政府はキリスト教徒の彼らに改宗を迫り、また彼らを弾圧しました。明治初期当時クリスチャンが3000人以上浦上にいたのですが全員根こそぎ配流となり山口県愛媛県ほか西日本各地へ追放されます(これを浦上四番崩れ、といいます→一番崩れから三番崩れまでありますが四番崩れほど大規模な弾圧では無かったらしいです)。ただこれはキリスト教を信仰する諸外国からかなり批難を受け、数年後信者たちの配流の処分は解かれ浦上に戻ることが許されました。で、浦上のキリスト教徒は壊滅的打撃をうけるのですが、四番崩れのあと信仰が強まった人々やいったん棄教したものの再度入信した人々が寄付をしあって祖先から信仰を守ってきた浦上の地に聖堂を立てたのがこの教会のはじまりです。
もうひとつ触れておくと、第二次大戦中、長崎の中心部からちょっと離れてるのですが原爆はなぜか浦上に落ちました。爆心地はこの教会のそばです。

写真は原爆で破壊された前の教会の遺構です。教会内では告解(罪を告白して赦しを得ること)を執り行ってたのですが、そこにいた司祭も信者も全員死亡、教会も破壊され壊滅的な打撃をうけました。戦後10年以上かけて再建され、さらに復元されたのがいまの浦上教会です。
で、この浦上教会はかなり大きな教会です。事情を知ってしまって建物が信仰の強さの証のように見えてきたのですが。


この日は浦上教会のそばのカソリックセンタのユースに信徒じゃなくても泊まれるのを確認して宿泊。


荷物を置いてさらに長崎探索。

香港上海銀行大浦天主堂で時間を相当使いすぎてしまい、原爆資料館に行けなかったのでかわりに平和公園を訪問。

これは眼鏡橋です。長崎の観光地のひとつらしいのですが、あー眼鏡橋だー、で、終わっちまいました。はりまや橋札幌時計台を見たのと同じ感慨というかなんというか。

長崎新地中華街。最初、立ち寄るつもりはなかったけど、なんかこう、引力っぽいのを感じて思わず入っちまいちゃんぽんを食しました。


ユースホステルってのは談話室ってのがありまして、そこでいろんな話が出来ます。で、最初日本人だけで脈絡無く隠れキリシタンの話や北海道のこと話していたのですが、途中から韓国からの団体さんの中から日本語をしゃべれる数人がその輪に加わるようなことになりました。無謀にも、質問に答えるかたちで神仏習合とか日本のあちこちに神様がいたりとか、そういうことを日本語と英語のちゃんぽんで説明しようとして苦戦。カソリックセンタでそんな話をするとはおもってなかったんすけど。
で、早く寝ればいいのに話が深いほうへいっちまい日付がかわるころに就寝。


遡及日誌4日目
朝5時半に目が覚めました。なんでかっていったら、浦上教会の鐘がなります。アンゼラス(お告げ)の鐘です。ミサは6時からです、どなたでもどうぞ、といわれてたのですが、私はなんとなく遠慮しました。

大きな声では言えませんが私は親に神学部への進学希望を口にしたことがあります。反対もされなかったものの結果的に法学部に入りました。で、私にとって聖書ってのはちょっと重要な書物でした。このブログでも聖書の言葉というのを何度か引用しています。それが正しい意味を理解してるのかどうか、わかりはしません。一時期精神的な拠りどころとして聖書を利用していた時期はあります。ただキリスト教というその道がほんとに正しいの?という疑問が拭えず、結果的にその道にすすまず、また、私の場合何人かの末期のがん患者が身近にいてホスピスへ、という相談を受けて、その人たちに有効な言葉をかけることが出来ずに煩悶し、四国を廻ったりするような仏教中心の信仰に進路を変えました(といっても得度してるわけではないし、あんたのやってることは真似事に過ぎないって言われればぐうの音もでない程度のことですが)。たぶん、この道が正しい、と思って入信しても私はキリスト教に疑問を抱くことがあったはずです。どういえばいいのか巧く説明できないのですがなんとなく違和感がうっすら伏流水のように心の底に流れてて本気でその信仰を守れるかどうか怪しいところがあります。たとえば現実的に許せないような人というのはいて、で、許容できないという、どうにもならない狭量な醜いものってのが私にはあります。たぶんそれを捨てきることは出来ないのではないか、なんて思ってます。正しいことを守ることってのができないのではないかと思うし、自信がなかったりします。変な話ですが宮崎の山幸彦の神様のほうがほんと正しいことなんてしてないはずなんすけど、なんだか私には安心できるというか人間くさくて親しみ持てたりするのですが。
で、なんとなくキリスト教に苦手意識がでてきてて、ミサの参加もなんか億劫になっちまったのですけど。
カソリックセンタですからよほど訊こうかと思ったことがひとつあって、醜い感情をどう処理してるのだろうかとか、信じられないときとかなかったのかな、なんて思うのですけどどうみても意地悪な質問になりそうで訊けませんでした。それとも何の疑いもなく信頼して、信仰生活を送るのがクリスチャンなのだろうな、とは思うのですが。


朝食をカフェでとってると昨日一緒に語った人たちと再会。ミサに参加した非カソリックの女の子の話だと雰囲気に圧倒されたみたいです。浦上教会ってマンモス教会らしいので、かなりの参加者が居たのではないかと。食後、相互に「良いたびを!」といいながら別れます。信仰も出身地もちがうし二度とあうこともないでしょうけど、なんか濃密な会話をすると平気でそういう言葉がすらすらとでてくるから不思議。


実は長崎観光だと出島とかグラバー園なんてのもあるのですが、そこは今回はパス。一路佐世保を目指します。

佐世保へ向かうのどかな普通列車にのってて、うたた寝から目が覚めたら忽然とこんな建物があったのでびっくり。ハウステンボスです。けど、パス。

佐世保からさらにレールバスに乗り換えて田平ということろへ。


その田平というところについたとき、運悪く突然雨が降り出しちまいました。目指すは丘の上の教会なのですが風が強くなって高千穂で買った傘も破損。雨宿りのあと、意気消沈しながら歩いていたら完全に道に迷いました。それほど車が通るようなところではないので近くの国道にいったん降りて自動車販売店で道を訊くと中へどうぞーと誘われて麦茶をいただくことに。恐縮しながら一気飲みし、礼を述べて再度歩きはじめたんですが、もう一回道に迷いました。
万事休す、どうしようか、と途方に暮れてたら近隣の方が自動車で通りすがるところに出くわしました。
で、瀬戸山の天主堂へ行きたいのですが、道に迷いました、と正直に告白すると
「あーあそこは判りにくいところにあるから乗ってゆき」
といって同乗させて貰えることに。ここらへんの人、のんびりしてるし適当で、みんなクルマで動くから距離感があんまりないんよ、だからそんなに遠くないよ、なんていってもクルマの感覚だから歩くとけっこうあるんだ、なんていいながらちょっとした解説付きで目的地へ。最敬礼でお礼を述べ、迷惑かなあとおもいつつ生ぬるくなっちまったもってたポカリを手渡しました。

瀬戸山天主堂です。たびら教会でも通じるかも。丘の上なんすけど、このあたりは明治時代に外国から赴任してきた神父主導で近くの島や県内から移住してきたカソリックの信徒が住みはじめ、で、クリスチャンだけの集落が成立しました。大正時代に本格的な教会の建築がはじまり、資金難にあえぎながらもフランスからの寄付もあったりして完成にこぎつけました。

この建物を建築したのが鉄川与助という棟梁です。この人は外国へいったことがないまま数多くの教会を作ってきました。本人はカソリックでもなんでもない普通の仏教徒なのですが、長崎を中心に多くの教会を手がけてきました。ぱっと見、外国から赴任してきた伝道者が伝える西洋の様式技法と日本人の大工の棟梁の伝統的技術が混ざっている不思議な建物です。瓦葺で、降り棟の降り鬼のところに十字架が入ってるの、わかりますか?
この建物、建築資材の一部に貝殻をつかってます。平戸周辺の海の貝殻を(信徒が)この丘の上まで運んできて焼き、レンガを積むときに使用していたそうです。

鉄川与助という人のことを知ったのは5年位前なのですが、やっとその作品をみれてなんとなく満足感を覚えてました。




そのあとバスで平戸市内へ。最教寺というお寺ですがここから空海が中国に旅立っていったので巡拝者がけっこういるようです。西の高野山、なんていい方もあるらしい。江戸時代の遍路の資料があったり興味深い資料がけっこうありました。

聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂。ザビエルが誰か、なんてのは説明不要でしょう。

平戸市内の資料館でカクレキリシタン関連の資料を見学しました。ほんとは瀬戸山天主堂へ行く道すがら車に乗せてくれた男性は「平戸市内でも密教キリスト教が一緒になってる地域がある、もし余裕があったら訪れてみるといい」なんてアドバイスしてくれたのですが、さすがにそこまではいけないので資料見学で済ましちまったのですが。
大学受験知識でいう隠れキリシタンっていう場合、表面は仏教徒を装いながらも内心はクリスチャンであり続けた人々の事を指します。「潜伏してたキリシタン」とでも言うような人たちです。この「潜伏してたキリシタン」の人たちは大浦に天主堂ができたあとそのほとんどは、カソリックに「復帰」しました。それとはまた別に「カクレキリシタン」とよばれる人たちが居ます。ややこしいのですがマリア像を所持しそして源流はキリスト教なのですが彼らはカソリックでもプロテスタントでもありません。大浦や平戸に教会ができてもカソリックに結果的に「復帰」しなかった人たちで、禁教下でカモフラージュのために受容していた神道や仏教と一緒になった多神教的で先祖崇拝のある「キリスト教的なものだけどキリスト教でないもの」を信仰してる人たちです。長崎県にはまだこの「カクレキリシタン」の人たちというのは存在しています。が、少数派です。
本来のカソリックの存在を知りながらも、でもいま現在信仰しているものに確信を持ってるのだと思います。それを変えることができなかった、ということなんだと思います。
資料を見学しながら信仰っていう行為についてしばらく考え込んでました。



平戸は大きなまちではありません。で、資料館のあと、ちょっと時間があったので旅館へいって露天風呂で日帰り入浴をしてきました。ほぼ貸切状態だったんすけど、泳げるほど深くは無かったので泳げずじまい。



平戸から佐世保に戻って福岡経由で帰京しました。


ずるずるとここまで書いてきました。
いろんなものをみてきたつもりで、単なる感想をだらだらのべるだけの、しまりのない文章ですいません。なんとなく自分の中でまだまとまりの無い部分が多かったりします。ひょっとしたらまとまりなんか永遠にでないものもあるかも。

わざわざ読んでくださった方、ありがとうございました。