私は心理学を専攻したわけでもなんでもないので、以下、流して聞いてください(読んでくださいか?)


自分の中にある感情を人は無意識に表に出すことが多く、心理学では「投影」と呼ばれてるはずです。
例えば家に招いての会食中に目の前で相手が不機嫌になったとき、たぶん普通はその理由を一生懸命に捜そうとします。で、出てきた言葉が「料理まずかった?」であれば、自分の作った料理に何かしらひけ目があるときであったりしますし、この言葉が「投影」の結果であったりします。
また、この投影ってのはホント無意識で、例えば場合によっては性的関心を誰かに向けることに慣れてしまっている場合は自己の性的関心を他人に投影し、同様に持ってるものだと錯誤します。相手の意識なんて場合によってはお構いなかったりします(いわゆる恋愛における勘違いですね)。
応用で他人の欠点を指摘したときそれは自分のことを表している(発言者の抱える問題点を浮き彫りにしている)とする説があって、「ええかっこしい」とか指摘した場合には自分がどこか「ええかっこしい」なのだというひっかかりがあり、ようはええかっこしいを否定することを述べて自分がキレイだって主張したい場合があるものと思われます。自分の中で引っかかってる、ちと耐え難い暗い部分を相手に投影することで、自分自身の気持ちのバランスを取るのではないかとおもうのです。自分にはそんな部分は無い、きれいな人間であると感じていたいちとイタイ心理です。たぶん誰にでもあって、別に恥ずかしいことではないと思います。私は、悪口じみたことをいった後に自分の発言を振り返りなんとなく自己嫌悪に陥るのですが。


ただ、この投影って必ずしも全て当てはまるような訳ではないと思うのです。こういった理屈を述べる時点でなんか女々しいですが、例えば家族を殺された遺族が実行犯を嫌いだと言った場合はたぶん「殺人を犯す人間性」を嫌うはずで、もしくは性的犯罪の被害者が痴漢を嫌うっていった時にもそうなんですが、殺人行為や痴漢行為自体を嫌いこそすれ「我が内なる殺人実行性」や痴漢をどこかで実行しようとする、というのは有り得ないとおもうのです。


しかしそれでもなお、なんか、悪口を言うことが自分の問題点を浮き彫りにする、という指摘は妙に的を得てる気がしてなりません。ちょっと前に詩について悪口じみたことを書きましたが自覚できることとして自分の中に悲しみとか暗い点が相当あって、消化されて無かったりするからです。既に飽和点で、なにもこれ以上もうええ!みたいなところから出発してるのかもしれません。ひょっとして意味がホントは違うかもですが、人のフリみて我がフリなおせ、とはよく言ったものだなー、とおもいます。