詩を書く人ってのがどういう神経をしてるのかがわからなくて、実は詩のようなものをのせてる雑誌とかブログを眺めたことがありますが、詩を書く人っていうのはどういう状況で詩を書くのでしょうか。妄想なのか、空想なのか、一瞬のイメージなのか。詩というものは感動とか実感とかを文に表したものであって、決して状況とかさらには苦痛を訴えたりするものではないのではないかなと思うのですがどうでしょうか。目にしてしまったネット上で見た詩って、暗いのが多いのですが、いや、例えば絶望したくなる気持ちとか判るんですけど、それほど今現在って誰もが絶望が満ちてる世界なのかな、とか愚考するのです。また、そんなに悲しい感情にみなさんうちひしがれてるのかと。
それと、言葉から想起される副次的なイメージに頼りすぎてんじゃないかと。
たぶん毎日におわれてる、いっぱいいっぱいのサラリーマンには、詩というのはほど遠い存在で、理解がないだけなんですがね。
それでもまだ、短歌とかならわかるのです。たとえば
「淡路島 かよふ千鳥の なく声に 幾夜ねざめぬ 須磨の関守 」
ってのがあります。千鳥の鳴く声で目覚めるくらい須磨とは淋しいところで(今は違いますよー、コープこうべくらいはあります。たしか)そこで一人で暮らさねばならぬ悲哀とそれにあわせてシンクロして歌った人自身の孤独がこの歌には出てるとおもいます。一人寝のさびしさですね。
ただ、あまりにも有名な俵万智さんの
「「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」
っていうのとかは全くわからなかったりします。どこがいいのかがわからない。何が云いたいのかがわからないです。そういう感性なのかもしれません。感性じゃねえ、人間性の問題かも。
「ガス室の歴史学びし少年が午前二時に弾くモーッアルト」
ってのを昔新聞で見て、どこがいいのかさっぱりわからず(けど有名な賞を取ったらしい)自分が文学部に向かないことを痛感したことがあります。ひょっとして空間を切り抜いて、そのイメージだけで書けばいいのかな、ってのについていけなかったりします。サラダ記念日もガス室も情景を思い浮かべようと思えば浮かびますが、で、何が云いたいの?なのです。いや違う、何を伝えたかったの?なのです。というのは昔、知の技法って本があって、その中に表現に携わる中国の文化人の言葉として『不是 無病伸吟』というのが引用されてたのを記憶しています。病気じゃないのに病気のふりをしてはいけない、みたいな感じですね。同意見で実感したことをうたうってのが実は文学とか詩とか短歌とか表現だと思ってました。けど、違うのかもしれないです。
ゲイジュツってほんとわからないです。