仁左衛門丈の「身替座禅」

NHKEテレで身替座禅という演目を放送していました。不粋なことを書くと・あらすじを書くと、知り合った遊女から逢いたいという文を貰った主人公は奥方には持仏堂で念仏するからという理由で一晩だけ奥方の許から離れることを計画します。持仏堂には腹心に頼んで替え玉になってもらい主人公は遊女に逢いに行くのですが、心配になった奥方が持仏堂に茶菓を持参したやってきます…って、この先はぜひとも歌舞伎座などでご覧いただきたいのですが、わりとよくかかる演目で(7月の歌舞伎座でもかかっていた)、結末も知ってるのに1時間ほど、最初は洗濯物を畳みながら、そのあとはすべての手を止めてじっくりとテレビの前で観劇をしその世界を堪能しています。

放送された身替座禅は当代の片岡仁左衛門丈のもので、興味深かったのは(ゲラなせいもあって毎回腹を抱えて呼吸困難になる程度に私は笑えてしまうのですが)、仁左衛門丈がこの演目を喜劇と考えて演じているわけではないという趣旨のことをおっしゃったことです。また奥方は主人公が好きでたまらないかわいい女性とも仁左衛門丈は述べていて、妙に引っかかったので、それらを踏まえて視聴していました。

劇中、奥方の「ええありように(遊女の)花子が許に行くと云うたならば一夜ばかりはやるまいものでもないに」というセリフが(たしか)あって、つまり正直にいってくれれば一夜くらいは…という微妙な心理をのぞかせてます。(解釈が間違ってるかもしれませんが)奥方は浮気そのものじゃなくて、嘘をつかれたことに怒ってるのです。性別は異なるものの「ああなんだかわかるなあ」と眺めていました…ってわたしのことはともかく。また、主人公は逢瀬のことや奥方の容貌に関する悪口を成り行きで本人が居ないと思ってついぺらぺらと滑らかな口舌でしゃべってしまいます。(愛すべき救いようのない男である主人公はともかくとして)見てるこちらからすると喜劇なのものの、仁左衛門丈の言葉が無かったらわからなかったことですが奥方からすると確かに悲劇です。喜劇と悲劇が表裏一体で、喜劇だと思っていたおのれの読みの浅さをちょっと恥じています。

とはいうものの。

計画がすべてバレてしまい、主人公が酔いも醒め奥方と顔を見合わせる緊迫した場面ではやはり呼吸が難しくなる程度に笑いだしてしまっています。しかしそれでも場数を踏んだ老練な役者の解釈を機会があればもっと聞きたいな…と思わされた体験でした。

最後にくだらないことを。

仁左衛門丈には御年77とは思えない「どうしようもない男特有のかわいさ」と「色気」があって、「相変わらずスゲー」「かわいさや色気って所作なのかな」と思わされてます。真似できるはずがないものですが、近くに寄せることができるものならちょっと…とは数秒考えちまいました。素材も違うし、下手な考え休むに似たりかもしれませんが。

当代の三平師匠のこと(もしくはある小説を読んでの雑感)

小説に書かれていることが事実であるかどうかを問うのはきわめて不粋なことと承知しつつも、「もしほんとであったらしんどいな」という部類の小説をいくつか読んだことがあります。その筆頭が立川談四楼師匠の「談志が死んだ」(立川談四楼・新潮社・2012)です。晩年の談志師匠の周囲を談四楼師匠の目線から描いたもので、少しだけネタバレをお許しいただきたいのですけど弟弟子の著書である「赤めだか」(立川談春・扶桑社・2008)を書評で誉めたことによって怒鳴られ、突然破門宣告されます。その謎ときを含め是非詳細は物語を読んでいただきたいところですが、フィクションと頭では理解しつつも「これ、当事者であったらキツイな」と読んでいて思いました。それくらい緻密に描かれた力作です。

話はいつものように横に素っ飛びます。

上記の本の中で三遊亭小円遊という落語家が出てきます。談志師匠が関係した笑点大喜利のメンバーで、元々は古典落語の担い手として嘱望されつつ、しかし結果として笑点でキザを演じてそれをウリにして売れっ子になり周囲はキザを要求し、収入は増えても結果的に次第に酒に溺れます。若き日の談四楼師匠が小円遊師匠の晩酌に付き合った夜の一部始終がエピソードとして描かれ、落語家が売れることや落語家の幸せに関して考えるきっかけになった、と記されています。主たる物語とはあまり関係がありませんがフィクションとはいえ「これ、当事者であったらキツイな」と思わされ、妙に印象に残っていたのですが。

さらに話が横に素っ飛びます。

笑点は(たい平師匠が大喜利でオネエキャラを演じて笑いをとるのがキツくて・私はオネエではないけど同性愛を笑って良いものと考えてるのがキツくて)しばらく視聴していません。それでも当代の三平師匠が新たに加入していることなどは知っていました。当代の三平師匠がどういう落語家になりたいのかは不勉強なので知りはしないのですが、三平師匠が笑点から卒業すると報道で知ってやはり思い浮かべたのが上記の談四楼師匠の小説の酒に溺れていた小円遊師匠のエピソードです。フィクションとはいえ、わかりやすいキャラで売れること・わかりやすいキャラを演じること、そして知名度を上げることが落語家にとって幸福とは限らないと知ると、無責任な外野からすると当代の三平師匠の選択は間違ってないようにも思えます。戦時中に創作され戦後は封印されていた落語を当代の三平師匠がここで口演しはじめていることを毎日新聞で知って、実は根がマジメな研究者肌の人なのではあるまいか?と疑っていたのでなおのこと。できるのは人力詮索だけで、もちろんほんとのところはわかりませんが。

事実ではないかもしれぬフィクションを読んで、そのあとに現実に起きていることを眺めてあれこれ考えてしまうのは噴飯ものかも知れぬのですが、なんだろ、(べったら漬けのポスターを眺めてて顔見知り感があるせいかもしれぬものの)当代の三平師匠の選択に妙にホッとしています。できることならこれから先代と異なる形で、名前を大きくして欲しかったり。

コロナ前には戻れないという言葉を耳にして(もしくはパン屋の閉店について)

ふだんはヨーカドーで売ってるような高くはない食パンを朝に食べます。しかしたまに値段がちょっと高めの良いパンを買い、味覚は思考を封印するので「うまいなあ」と舌で感じ、抱えてる仕事で処理しなければならぬことを想起して陰陰滅滅になりそうなのを封印することがあります。食というか味覚は自分にとってかなり重要なところがあって、なので味覚障害が出るというのを聞いてからずっと新型コロナの感染対策のため手洗いなどは怠ることなく続けてます…ってそんなことはどうでもよくて(よくないかもしれない)。

いつものように話が横に素っ飛びます。

登戸など小田急線沿いを中心に北欧(HOKUO)というチェーンのパン屋さんがあります。小田急の沿線ではない都心部にもいくつかあり、親が最期に居た病院のそばにも北欧があって、親の最期が近づいてお腹がすくという感覚があまりなくても、不思議と北欧のパンは喰えてました。パンを食べてそれまでの思考をシャットアウトして「次に何をしなければならぬのか?」というのを冷静に判断できています。決して通常ではない状況の中において、比較的冷静さを保てた要因のひとつはパンだと思ってて、以降、より贔屓にするようになっています。味覚で思考を封印するためにいつもよりちょっと高めのパンを購入するときの重要な選択肢のひとつになりました。

北欧のパンについて(もしかしたら)誰もが「おいしい」という評価を下すとは限らないかもしれません。行列ができるほどの人気があるパン屋でもありませんし、新大阪など撤退したところもあります。私個人は「おいしい」と思っているのですが、その「おいしい」という記憶は、個人的体験と思い込みが何割か入ってるののでは?という気がしないでもないです。そもそも「それまでの思考がシャットアウトされる程度に味覚に集中してしまう≒おいしい」という図式は万人にあてはまるものとは限らないかも。

おいしいと思うかは是非買って食べて確かめていただきたいのですが、北欧は去春以降売り上げが低迷し来年の2月で全店閉鎖という方向になってしまいました(ただしDONQが数店引き継ぐ予定)。付随する記憶もある店なのでただただ残念であったりします。北欧のパンを少し特別なものとして維持したくて、味に慣れぬようしょっちゅうは買わずにいて、なので「たまにしか買わないからだ」といわれればぐうの音も出ません。

「コロナ前には戻れない」という語句も理屈も知ってはいるものの、駄々をこねてなんとかなるのなら「パン屋はコロナ前に戻してくれよう」と駄々をこねたいところであったり。

「モダン建築の京都展」

行かずに後悔するよりもどうせなら行ってから後悔しようというのはちょっと危険思想なのですが、新型コロナ対策に留意しつつこの土日に京都へ行ってて、京都市京セラ美術館で26日まで開催中の「モダン建築の京都展」を見学してます。主に明治以降から昭和40年代までの建築について触れた展覧会です。

美術館からみえる東山の山並みの、その東山の向こうの琵琶湖から引いてきた琵琶湖疎水の完成によってはじまる明治期の京都の殖産興業(と教育)についてからの展示からはじまっていました。京都には銀閣などをはじめ貴重な古建築が残っていますが、と同時に(おそらく大きな地震が少なかったことも影響してるはずですが)西洋の技術を取り入れた明治からこちらの建築もけっこう残っています。もちろん現存する琵琶湖疎水や(御所に消防用水を供給する)御所水道なども触れています。疎水については傾斜だけで琵琶湖から水道を引いたというのが工程を考慮すると個人的な驚愕のポイントなのですが、本展は土木的な観点は(残念ながら)あまりなく、建築もしくはデザインになるべく焦点を合わせ、当時の図面や資料や写真や資材や現役の付属品、場合によっては

模型を展示しながら、西洋の技術をどう消化していったかの展示が主です。詳細はやはり本展をご覧いただくとして。

疎水が完成し、明治後期になると外国の様式を取り入れた大丸ヴィラなどの建築が出てきます。烏丸通から眺めたことだけはあるチューダースタイルの建物のヴォーリスが引いた図面などが展示されてて、ついまじまじと見てしまっています。八坂神社の近くにはルネサンス様式やロココアール・ヌーヴォーなどを取り入れた長楽館という上品にいえば不思議な(下品にいえばなんでもありの)建物があって、やはり紹介されててつい「ふふふ」となってしまっています。その長楽館の備品が展示されてて

椅子などは写真OKだったのですけど

螺鈿細工の椅子が出品されていました。これらだけみると不思議な椅子で、椅子が周囲を選ぶ気がしてならず、建築というのは建築物に限らず空間を構成するものすべてを含むものもあるのかな、と改めて思わされてます。

西洋の建築技術や外国の様式を取り入れたあと明治後期から和洋折衷の建物が出現します。

もともとは西本願寺真宗生命の建物として建てられた本願寺伝道院などです。イスラム式のドームの下に和風の花頭窓、英国っぽく赤レンガのタイルに花崗岩の帯状の装飾、わかりにくくて恐縮ですが側面に千鳥破風と思われる意匠を施しています。この本願寺伝道院だけは滞在中に西本願寺そばにある実物を見学してて、妙に印象に残る建物でした。保険会社の建物ですから可視化できない信用を保持するために可視できる部分では印象に残る立派な建物である必要はあるので、その点、施主の目論見はおそらく成功したはずです。

さて、京都にはチェーンではないコーヒー店がいくつかあるのですが、そのコーヒー店も本展では都市文化の観点から紹介されていました。四条河原町の駅からそれほど遠くない喫茶室フランソアの

店内が再現してあって以前コーヒーを飲んだことがある場所でもあるので、展覧会のテーマが妙に身近に感じられました。

モダンとはなにかといわれると専門家ではないので答えは難しいですが、確かに西洋の建築を取り入れ消化し、街並みに馴染んでいていまの京都にはたしかに欠かせない要素の一つかもしれなかったり。

だったらあそこもあるかな…と思っていた(個人的にお気に入りの)京大そばの進々堂も紹介されてました。やはり貴重なところだったのだな、とシロウトながらも妙に腑に落ちています。

時間泥棒的なほんとうに興味深い展覧会ではあったものの、少しだけ残念だったのはできればもうちょっと明治期以降のモダン建築を支えた素材のことについて、たとえば外内装にも関係してくるレンガやタイルなどの紹介がもう少しあればよかったのにな、と。そんなことを気にするのは少数派かもしれないのですが。

流行りの擬人化したパネルが置いてあって「え、そこまでするの…」と驚愕してます。ただ入り口はどこでもいいので、建築の興味を持つ人がちょっとでも増えてくれればいいな、と。

今年買えてよかったもの

手袋の左ばかりになりにける、という子規の句があります。以前は句のように片方だけ見失うことをやってしまっていました。手袋の片方が自ら逃走することは考えにくいので絶対犯人は私なのですが、前日帰宅時に手袋をしていたにもかかわらず翌朝見当たらないことが何度かありました。前夜どこに置いたのか記憶してないことなんてあるのか?と云われそうですが残念ながら記憶力がよいほうではないようで、忘れてしまうことがあります。定物定位置を徹底して置く場所を決めてるので、今年はまだそのような状況に陥っていません…って手袋の話をしたいわけではなくて。

いつものように話は横に素っ飛びます。

デニムのような厚手のものを干すためのハンガーが最近、突然壊れてしまいました。プラスチックの劣化が原因だと思われます。上部に物干し竿をつかむグリップがあり、下方は長方形で四隅にピンチがあって、重宝していました。壊れたものはしょうがないので、(グリップ付きの)普通のハンガーを間隔を置いて2つ並べそのハンガーにピンチ2個を利用してその場を切り抜けています。困ったのは重宝していたハンガーをどこで買ったのかをきれいさっぱり忘れてることです。記憶力が良いほうではないことを悲しんでいてもしょうがないので、近所のヨーカドーやドラッグストアを探してみたものの、同じものがありません。似たようなものはありましたがグリップ付きでなく、いま住んでいるところは(手袋が必要になるような)晩秋から春にかけて風が強いところなのでできれば物干し竿をつかむグリップ付きが欲しいのです。些細なことなのですがその些細さが重要で、隣近所から洗濯物が飛んでくることがあってその反対もあり得るわけで、絶世の美少年でも絶世の美中年でもないくたびれたおっさんの洗濯物が近隣に飛んでいったら迷惑なはずで、なので、しばらく探していました。

この前の週末、近所ではないけど少し大きめの映画館併設のショッピングセンターにカインズというホームセンターが入っていて

まったく同じではありませんがグリップ付きでデニムなどの厚手のものが干せそうなハンガーを見つけて購入できました。この時期になると「今年買ってよかったもの」というエントリがはてなでは出て来ますが、「今年買えてよかったもの」と問われれば個人的には厚手のものも干せるグリップ付きのハンガーです。あとで知ったことですがカインズは赤城おろし吹く群馬発祥の店で、飛ばされないように工夫したハンガーは必要不可欠なはずで、妙に腑に落ちています。

記憶力が良くないので何年か先に困らぬようにダイアリに書いてみたのですが、でもダイアリに書いたことを忙しさにかまけて忘れてしまいそうな気が。それじゃダメじゃん

お題「これ買いました」

東京の郊外の小さな街のいまの状況

たぶん前にも書いたかもしれぬのですが私が子供のころに、大月や上野原あたりの酒まんじゅうを叔父が私へのお土産としてよく買って来ていました。たいてい10個入りで、酒まんじゅうがあると来る日も来る日もおやつは酒まんじゅうです。山梨の名誉のために書いておくと酒まんじゅうはずっと食べ続けられてる美味しいもので、しかし、それが最低でも年2回それぞれ10日間、場合によっては4回、何年も続くと美味しいものでも飽きてきます。次第に酒まんじゅうは冷蔵庫内で干からびるようになり、そのうち干からびた酒まんじゅうは捨てても良いようになりました。しかしこの経験によってどこかに後ろめたさが醸成されたのか、食べ物を捨てることにいまでも抵抗があります。食べきれないほど食品を買うことも無く、貰い物でも素麺などでも決して得意ではなくても工夫してなんとか消費します。ただ、酒まんじゅうが10個来たら工夫しようが無くいまでも頭を抱えてしまうような…って酒まんじゅうはどうでもよくて。

(郵便受けに入ってた)いま住んでいる街の市報の1面に「年末に向けて必要とされる世帯に配りたいので余ってる食品を寄付して欲しい」という趣旨の記事があって、少しびっくりしています。なにかあるかな?と思ったものの、酒まんじゅうの経験から食べ物を捨てることに抵抗があるので余るように大量に買うわけでもなく、貰い物の素麺も工夫して食べ、前回の緊急事態宣言時に買い増しておいたツナ缶やコンビーフなど缶詰類は宣言明け直後から料理に使ったりして取り崩していたのであらかた消費したあとです。なんか申し訳ない気持ちになったものの、しばらくして申し訳なくなる必要はないことに気が付いています。しかしどこか落ち着きません。

私が見てないだけかもしれぬものの記憶に間違えなければ役所が食糧提供を呼び掛けるなんていままでなかったはずで、経済の統計上にあらわれないところで景気の悪化って確実にあるような気が。なので、対象が限定的ではあるものの一時金の給付を全額現金可とする報道を知って一息つける世帯が増えると良いな、などと思いました。政治経済に疎いのであまり多くを語れないのですが。

日本読書株式会社

いつもと同じようにくだらないことを書きます。

発作的座談会(椎名誠沢野ひとし木村晋介目黒考二著・角川文庫)という本をたしか高校生の時に確かハーケンと夏みかんと一緒に読んでいて、文庫落ちしたものを古本屋で見つけいまでも手許にあって捨てられずにいます。「コタツとストーブどちらがえらいか」とか限りなくどうでもいいものも含まれるのですが(名誉のために書いておくと「無人島に持ってゆく本」等のテーマもある)、ひとつのテーマに関して本の雑誌社の幹部が語ったものを活字化した本です。その中に良い本を万人にすすめたいという観点から出た「日本読書株式会社」というのがあります。1ヶ月1000円の会費で中立な立場でカウンセリングしながら面白い本をすすめるなどの手法で本を紹介することで商売ができないか?1ヶ月1000円で2万人集めれば2千万で、経費を半分の1千万に抑えればなんとかなるのでは?などと話が進みます。

いつものように話は横に素っ飛びます。

はてなハイクというマイナーなSNSに居たときに、本をたくさん読んでるであろう人なのですが「この小説家のおもしろさがわかんないなんてわかんない」という趣旨のことをいう投稿をみかけたことがあります。どこか同調圧力みたいな怖さを感じて距離を置いています。上記の「日本読書株式会社」では99人が面白いと感じても残りの1人が面白いとは感じない可能性も考えて制度設計をしてて、同調圧力もなさそうだし私みたいなマイナーな読書傾向もカバーしてくれてるなら1000円ならいまでも検討の価値があるかも…ってぜひ詳細はお読みいただきたいところです。

日本読書株式会社に引き摺られて個人的なことを書くと、恥ずかしながら私は他人が面白いとか他人が良いとすすめた本を読めなかったことがあって(「かもめのジョナサン」と「ライ麦畑で捕まえて」はこの歳になっても最後まで読んでいない)、誰かが面白いとか良いと言ってても手に取ることはそれほど多くはないです。たぶん他人と本を読むうえで何かが決定的に異なるのでは?と疑ってて自分が面白いと思っても他人が面白いとは限らないはず、という意識があって、読んだ本のことについて「読んでどう思ったか」については書いても(「赤めだか」は例外として)他人に薦める前提では書いてないです。そもそも他人に紹介できるほど本もたくさんは読めてません。上記の日本読書株式会社では読書士という難関資格的な国家資格制度も想定してるのですが、絶対それに合格できる自信はありません…って、私のことはともかく。

あったら魅力的かもしれぬ日本読書株式会社について議論は白熱して闇書評は懲役であるとかモグリの本の紹介は良くないとか「本の紹介や書評はプロが行うべきである」という発想が明文化されてはいないもののチラチラと出てきます。トータルでは抱腹絶倒なのですが、木村晋介さんが専門職の分野から言論の自由などの観点から発言してはいるものの暗黒の世界にいくらか近く、どこかイヤだなあ、とうっすらと感じていました。日本読書株式会社に未来はあるのかの検討を含め、詳細はやはりお読みいただくとして。

日本読書株式会社の存在は忘却の彼方にあったのですが、Tik Tokで本を紹介してる活動をしていた本好きの人が書評家に批判されて活動を止めた、というのを知って、既視感を覚えて日本読書株式会社を思い出してます。日本読書株式会社の背景にあるような「本の紹介や書評はプロが行うべきである」というのが見え隠れして暗黒の世界っぽく感じられ、現実が本の雑誌社の妄想に追いついて「ちょっと怖いな」と思った次第です。Tik Tokに限らず本好きの人が本の紹介をすることは別に誰がやったって良いのではないか、という気が。

最後にどうでもいいことを。

日本読書株式会社では本を読むときに座布団のほかに耳かきがある設定で、この世には本を読みながら耳かきをする人が居るのかと衝撃を受けています。机の上にはお茶も必要とされてるのですが、私は本を読んでいるときに飲み物を飲んでしまうと液体が喉を通過する音が気になってしまうので、熟読するときは飲料はそばにまず置きません。なんだろ、読書のスタイルって個人差があるのかもなあ、と。