「江戸幕府の感染症対策」を読んで

第三波のあたりから長くなりそうだと考えて、いまさらなのですが感染症対策関連の新書を読んでいます。今月に入ってから「江戸幕府感染症対策」(安藤優一郎・集英社新書・2020)という本を読みました。

本書の前半部には徳川吉宗がでてきます。私が大学生の頃に大河ドラマで「八代将軍吉宗」というのを放映していました。享保の改革を行った吉宗を扱ったものなのですが、記憶に間違えなければ若い日に吉宗が疱瘡に罹患し闘病したことにも触れていたはずです(包帯をとると子役の俳優から西田敏行さんに変化する、という演出だった)。本書を読むまでそのことをすっかり忘れていたのですが、本書では享保の改革の前後の27年の間にくり返しひっきりなしに疫病が流行していたことに触れられていて(疱瘡が5回、麻疹が2回、病名のわからぬ疫病が5回ほど・P47)、また吉宗が将軍に就いた享保元年(西暦1716年)には名称不明の疫病の影響で死者はひと月で8万人を超えたこともあり、土葬も火葬もままならぬ場合は菰に巻いて品川沖に流さざるを得ない状況であったことにも言及があります(P48)。詳細はお読みいただきたいのですがけっこうシビアな状況で将軍になった吉宗は薬学に興味を持ち、おそらくその間接的結果として享保年間に幕府は対馬の宗氏を介して密かに朝鮮人参の種子を日本に持ち込み(P41)増産が可能とわかると各地に植えさせたほか、各地の薬草を調査させた(P38)ことなどが本書では紹介されています。ドラマの影響などで小石川養生所の設置などは知っていたものの、(効果は限定的であったにせよ)吉宗は感染症に立ち向かおうとしていたことを知りました。吉宗の知られざる側面が興味深かったです。

本書の一番のキモの部分と思われるのが寛政年間からはじまるいわゆる七分積み金(を活用した江戸版の持続化給付金)の紹介です。地主から徴収した消防経費などの町入用を節約させ、その浮いた分の7割とはならなかったもののある程度を新設の町会所で管理し、そこに幕府からの下げ渡し金を加えて町会所が籾米等を購入して備蓄して困窮者対策に充てたり飢饉や米価高騰時などへ備えたのですが(≒米価高騰による困窮民による打ちこわしをおそれての政策だったのですが)、インフルエンザなどの疫病流行時にも必要に応じて活用されています。享和2年(1802年)のインフルエンザの事例では肴売りや大工や左官などその日稼ぎの町人に対し病気の有無など条件を付けずに(町人の半分以上にあたる)28万人強に12日間で総額7万3千貫強、一人250文から300文を1日2万人以上に給付しています(P117)。翌年の麻疹の流行時には制限を付けたものの20年後の文政4年(1821年)のインフルエンザでは7日間で29万人に総額7万5千貫を(P121)、天保3年(1832年)のインフルエンザ時には30万6千人強に10日分として1万千4百石強(P123)、嘉永4年(1851年)のインフルエンザ時には38万7千人強に対して白米1万4千石強(P135)、安政5年(1858年)のコレラでは52万3千人強に白米2万3千9百石強を給付しています(P154 )。享和以降(江戸に限定されますが)、本書の言葉を借りれば疫病が流行ると経済が停滞することを見込んで手厚い生活支援を行ったことで結果として幕府は社会の秩序を維持の継続に成功します(P203)。医療政策の限界を経済政策を兼ねた社会福祉政策で補おうとしていた(P203)とも著者は評していて、私は専門家ではありませんがその指摘は間違ってないと思いますし、できるかどうかは別として打つ手が限られてるいまに応用できそうな気がしないでもないです。

さて、最後にすごくくだらないことを。上記の七分積み金を利用した町会所による籾米等の備蓄なのですが、1日あたり男性が5合、女性と子供は3合で見積もっています(P124)。茶碗で1日10杯以上になるはずでひもじい思いをさせない意気込みを感じるというか、たらふく食わせるつもりだったのかもしれません。読了後、池波作品が史実に沿ってるとは限らないものの江戸時代はどれくらいご飯を食べてたのか気になって包丁ごよみ(池波正太郎新潮文庫)をぱらぱらとめくってたら手裏剣お秀という作品の中で(鮒の身をみじんにして炒めて芹と葱を混ぜ醤油と酒とみりんで味付けた鮒を載せた)鮒めしを登場人物が一食で三杯食べてる描写があったことはあったんすが。

でも1日5合って「そんなに食えるのかな?」という疑問が。

駿河台匂

いつものように役に立たないくだらない話を書きます。

中学の時に機械的百人一首をおぼえたことは何度か書いた記憶があるのですが、そのなかに「あおによし奈良のみやこの八重桜けふここのえににおいぬるかも」ってのがありました。そのときは辞書もひかず、正確な意味は後回しにして九重部屋の奈良の八重桜は匂うかも?ということをキーにして覚えています。正確な意味を後まわしにしたので大人になってから桜って匂うのか?ということが酔っぱらってるときに話題になり、いざ桜の木に鼻を近づけると「桜餅のにおいがする!」ということになり、経験に学ぶ愚者なのであおによしの歌は桜餅のにおいを詠ったものである、という解釈を一時していました。しかし冷静に考えると桜餅が平安時代にあったかどうかも怪しいし、桜餅は強いにおいはありません。「九重ににおう」ってなんだよ?ってことになって辞書をひいて九重は宮中、におうは美しい、という意味を知ります。わからなかったら辞書をひきましょう、という毒にも薬にもならぬ結論になるのですが、って辞書の話をしたかったわけではなくて。

厄介なことに桜の中には匂うやつがあって

駿河台に原木があった駿河台匂というのはある程度芳香がある、ということになっています(近所の公園の説明書きが正しければ)。匂いにつられてなのか、蜂が居ました。桜は虫媒花なのでちっともおかしくはありません。駿河台のニコライ堂のそばの病院に一時期お世話になってたので、どんな匂いかを確認したかったのですが、

しかし深呼吸してもマスク越しではちっともわからず。「まん延防止」対象地域ではないものの、かといって往来のある外でマスクを外す度胸もありません。

来年の今頃はマスクを外して匂いを知ることが出来ればよいのですが、鬼が笑うかな。

 

下書き供養(もしくは身体の感覚に裏打ちされた言葉について)

「Tell me where is fancy bred, Or in the heart or in the head?How begot, how nourished?」

ってのがヴェニスの商人にあります。わたしはバカなので巧い日本語が思い浮かばないのですが、気まぐれな心はどこからでたの?胸の中?頭の中?どうやって宿して、どうやって育つの?というようなことを問うています。答えは用意されてて

「It is engender'd in the eyes」

ってあるので、眼です。読んだのは大学の頃で、そのあと社会に出てTOKIOの長瀬くんがカバーしたラムのラブソングで

あんまりそわそわしないであなたはいつでもきょろきょろよそ見をするのはやめてよ

(ラムのラブソング)

というのを聴いてからうわあああヴェニスの商人のTell meからはじまるあの文章は普遍的なことを書いてるのかも!と考えるようになりました。長瀬くんの歌に頼らなくても、おのれを振り返ってもこれが良いと思って買ったものでも別のものを見てしまうとあああれも良いな、ってなりがちで、うつろう心ってのは目からくる、ってのはひどく理解できますって、浮気のはなしをしたいわけではなくて。

ヴェニスの商人もラムのラブソングも、文章のそのうしろに身体の感覚に裏打ちされたものがあるような気がしてならず、もちろんその二つに限らず、場合によっては身体の奥底にこつんと響くように書く方と読む方とをくっつけることがあるよなあ、ということに気が付いています。でもって身体の感覚に裏打ちされた言葉の連なりや文章がちょっとでもある場合、(俳句や短歌や小説や戯曲やエッセイは)私は比較的理解しやすいところがあります。つか、読んだものの文章の言葉を支えるのが論理ではなく、読んだ文章のイメージを支えるのが教養でもなく、身体の感覚に頼ることがあることについて、書けば書くほど頭だけつかって理解してるわけではないことの・おのれが頭が良くないことの・頭がからっぽであることの間接的証明になってしまってる気がします。

いつものように話が素っ飛んで恐縮です。

(5月27日付)毎日新聞夕刊に村上春樹さんのインタビューが掲載されてて、内容はほぼ騎士団長殺しについてで未読なのでちんぷんかんぷんだったのですが(念のため切り抜きして騎士団長殺しを読んだ後にインタビューを再度読むつもりです)、興味深かったのが村上さんは自身の文章のことを「いわゆる文学的文章ではなくてプレーンな(わかりやすい)文章」と述べてて、大学で文学をやらずに塩ラーメンになぜゴマがついてるかの研究…じゃねえ不動産ニ関スル物権ノ得喪及ヒ変更ハ登記法ノ定ムルニ従ヒ其登記ヲ為スニ非ザレバ之ヲ以テ第三者ニ対抗スルコトヲ得スとかの文学とは程遠い文語体を体の中にとこりこんでいたので文学もわからなければ文学的文章というのがまったく見当がつかないのですが、私はそれを身体の感覚に類似したことだと思っているのだけど触知できるリアルさに力点を置き、プレーンな(わかりやすい)文章だからこそ、おれみたいな頭のからっぽなやつでも村上さんの小説のいくつかは読めたのかなあ、と腑に落ちました。

…てなことを2019年5月末に書いていて、相変わらず「騎士団長殺し」については読んでなくて、いまに至ります。はてな今週のお題が「下書き供養」で引っ張り出したのですが長々と書いて「身体の感覚に裏打ちされた言葉のおかげで文学なんてよくわからねえけどそれでも読めて理解できた文章や言葉があった」という告白にしかならないです。

補足すると、くり返し何度も書いてることなのですが、はてなハイクというところで日本語で書かれた文章のやりとりをして何を言ってるのかわからない経験をしてから自分の書いた文章も他人が読んでもわからないかもしれないという恐怖を引き摺っています。上に書いた「身体の感覚に裏打ちされたものがあるような言葉や文章はよくわかる」ことは「私も身体の感覚に裏打ちされたものを書けば誰かに理解してもらえる」可能性があることにつながると考えてて、自分の書いた文章が他人が読んでもわからないかもしれないという恐怖を引き摺っている私は常にではありませんがどこか意識してるコアな部分でもあり続けています。ほかにも、意味が分かる文章と意味が分からない文章があるのはなぜなのかとか、ずっと考えてて、答えは出ていません。もっともそんな厄介なことを考えるのは普通はしないことかもしれないので、書いて普通にもなれないことを明らかにするよりこれらのことは下書きのまま封印していたほうがよかったかもしれません。

が。

書いた下書きっておのれの未熟さをさらけだすものであっても、日の目にさらしたくなる誘惑ってありませんかね。ないかもですが。

シウマイ弁当のこと

第三波の感染者が4ケタの頃は髪をお願いしてるところでは髪を洗う時以外は必ずマスク着用で、マスクをしながら神妙な面持ちで髪を切ってもらっている鏡の映るおのれをみて「なんだかSFみたいだ」と思っていました。その髪をお願いしている店の所在地がいわゆる「まん延防止」の対象地域になるようで、次お願いするときもたぶんマスクしながら髪を切ってもらうことになってるのではないかと予測します。そのお店のある自治体は人口約14万8千で今月1日から8日までの新規感染者が19人ほどで「まん延防止」になり、私の住んでいる自治体は人口約12万7千ほどで1日から8日までの新規感染者が32人で「まん延防止」にはなっていません。他にも指標があるとは思いたいのですが、なんでうちのあたりが除外されたのかは「いっちょんわからん」とつぶやきたくなるほど謎です。都からは見捨てられた土地なのかもしれず、このダイアリの更新がひと月くらい滞ったらお察しください。

勤務先のそばの大丸で新型コロナ禍の第一波の去年3月から第3波の今年2月までに売れた弁当のランキングが出ていて、崎陽軒シウマイ弁当が2位にランクインしていました。去年も2位であったようなのでやはり不動の人気という見方もできるのですが、「世の中がどんな状況になろうとも人の舌って保守的で変化などしない」というあたりまえの事実が(なんだか不思議とおかしくて)興味深かったです。たしかに私も買っていて、冷めても美味しいという理由のほか、またどうせ買うなら無駄に冒険せず美味しいと思うものをという意識も働いていました。加えて後遺症で味覚が判らなくなるというのをきいてから仮に味覚が判らなくなったとして最後に食べたのが崎陽軒のシウマイならまあそれでも悪くはないかな、ってのはないわけでもなかったり。

「まん防」の措置がどれくらい効果があるのか・第四波がどれくらい続くかわかりませんが、落ち着くまでにおそらくそのうちシウマイ弁当を買ってしまい、ふたたび不動のランキング2位におそらく貢献してしまう気が。

ほんとは来てほしくないのですが

おそらくどこもそうかもしれないのですが住んでる自治体のHPには新型コロナの情報について目立つところに表示があります。帰宅してからゴミの分別のことを調べようとしてそれをクリックしてしまい、(いま住んでいる街は情報提供があった場合は律儀に公開しているのですが)一度もお世話になったことはないもののいま市内の病院で60名以上の新型コロナの院内感染が発生してるのを知り、それを読んで念のため「缶詰と冷凍野菜を買い増ししとくか…」と考え、(nanacoを使うと値引きになる)8のつく日に買うもののメモに冷凍のブロッコリだとかいくつか足してそのあとひと仕事終えた気持ちになってパソコンを閉じようとしてしまい、いやいやいや違う違う調べたいのはゴミの分別だよ、と気がついて初志貫徹しました。これを書いてるやつは辞書で何か調べものしようとするうちに別のページを読み耽ってしまうことがないわけではないタイプです…ってそんなことを書きたいわけではなくて。

院内感染が起きてもニュースにのらない程度に新型コロナはありふれたものになってしまったものの、個人的には7月のあたまくらいまで若干忙しい日々が続く予定で感染症にかかってる場合ではないので、(20秒ほど手を洗うのにパプリカのメロディがいいと知りつつも相変わらず雛祭りと混同して「赤いお顔の右大臣ちゃちゃ」で終わってしまうのですが)手洗い励行しながら警戒しつつ、あんがい近くに来てるかもしれない第4波にそなえます。

ほんとは来てほしくないのですが。

新生活が捗ることより大事なこと

これから書くことは以前新生活を迎えたことのある意識低い系のおっさんの事例です。

よくある生活のヒント集で、炊いたご飯を小分けにしてラップでくるんで冷凍して必要に応じて温める、というのがあります。実はそれを前にやったことがあるのですが恥ずかしながら2日目で断念しています。食べれないことはないもののどうも口に合わず、口に合わぬものを無理やり口に運んでるうちに悲しくなってきてしまい、以降ほぼ毎夜毎回ご飯を炊く生活になっています。「生活を安楽に効率よく過ごすのが良い」という時代の流れに逆らって生活をしていて、しかし意識低い系なので帰宅してから炊き上がるまでの時間を短くしたいので研ぐ手間を減らすために

無洗米です。はてな今週のお題が「#新生活が捗る逸品」で、でも無洗米を炊くことは冷凍のラップごはん包みに比べるとちっとも調理の効率はよくなりませんし直接的になにかが捗るわけでもありません。せいぜい炊き立てご飯の上に乗せた明太子の消費が捗るくらいです。その上いつも買ってくる無洗米はどこにでもあるもので逸品でもなんでもありません。が、スタートダッシュからずっと支えてもらっています(311以降は宮城米です)。でもって、何かが捗ることや効率を追求するよりおのれの舌に合うごはんが捗るものを追求することのほうが実は新生活を迎えそれを継続するうえで精神衛生上とても大事なのではないかと思うのです…ってこのまま続けると私が単に食い意地がはってるだけの証明になるので話を無理やり逸品にけっ飛ばします。

個人的にここ数年重宝してるのが柚子胡椒です。たとえば野菜炒めでもほかの調味料と同程度の比率で柚子胡椒を加えると・塩焼きした鯛の切り身の最後に酒と柚子胡椒を小さじ半分でもいいので同程度の比率で混ぜたものを加えて少しだけ再加熱すると、新生活が捗るかどうかはわかりませんが、白いご飯の消費は捗ります。意識低い系なことを書くと冷凍の餃子を加熱したものに添えるときにも重宝しています。ねだんは東京で手に入るものは手ごろで逸品級ではありませんが・育った地域によって味付けには差異があると思うので万人受けするとは限りませんが、柚子胡椒は九州の誇る逸品なのではないかと(異論は認める)。

調味料ついでに書いておくと、(枝元ほなみさんと西原理恵子さんの以前の毎日新聞の連載「おかん飯」の受け売りなのですが)中濃ソースにレモン汁を入れてマスタードを加えて混ぜたものをコロッケ等にかけると、それがたとえ冷凍コロッケであったとしても・西友で一枚当たり95円のコロッケであったとしても、逸品に変身します。調味料って大事なような気が。

面識のあるドクタはよく「食欲がすべてを癒す」といっていました。嘘かほんとかは(そのドクタはこの世に居ないので)わかりません。でもなんだろ、白いご飯の消費が捗りそうなものを適切に喰うことは、ほんとは、新生活が捗ることよりも大事なことなのではないか、と思うのです。

「風流」雑感

いまあちこちに咲いているソメイヨシノは接木などで増やしてる事実上クローンで、ソメイヨシノは同じ条件であれば一斉に咲いて一斉に散ります。ところがいま住んでいるところの目の前は桜並木でも茨城と奈良から持ってきたヤマザクラオオシマザクラなどが主で、そのほかに戦時中の燃料不足のときに伐った場所にソメイヨシノを植えています。一斉に咲いて一斉に散るソメイヨシノだけではないので、なのでいつまでもダラダラとあっちのサクラが散ったと思ったら別のサクラが咲いたり、という事態になり、散った花びらが淡雪のごとく溶けて消えてくれればこれほど楽なことはないのですが、残念ながらそうではないので毎朝散った花びらを掃いてから出勤してます。散った花びらを片付けた重さに比例して所得税や市民税が安くなるのなら良いのですが残念ながらそんなことはありません。

サクラは空気を読んでくれるわけではないので竹ぼうきで掃いていてもはらはらと散ります。「お、風流」といって散ってくサクラを散歩がてら撮ってゆく人もいて、内心「どついたろか」と思わないでもないのですが、さすがに思うだけで実行したことはありません。

ただそんな経験をすると「風流」というのは当事者ではない傍観者が状況を無責任に評して云うことなのだなあ、と理解できてきます。サクラが咲けば掃き掃除がついてまわるので傍観者でない私はサクラと風流が結びつかないわけで。久方の光のどけき春の日に、ってのを詠んだ紀友則はたぶん掃き掃除なんて毎日してなかったからこそあの歌を詠めたのではないかなあ、と。わが身に降りかからない無関係なことほど人は無邪気に惹きつけられるのかも、ってなんだか書けば当たり前のことを書いてる気がしますが。

住んでる街の近所の、私が掃き掃除しなくてもよいところにある桃(キクモモ)が咲きはじめてます。桃が風流とつながるかどうかはわかりませんが毎年惹きつけられてて、誰も居ないのを奇貨としてしばらく立ち止まってしばらく鑑賞していました。