「風流」雑感

いまあちこちに咲いているソメイヨシノは接木などで増やしてる事実上クローンで、ソメイヨシノは同じ条件であれば一斉に咲いて一斉に散ります。ところがいま住んでいるところの目の前は桜並木でも茨城と奈良から持ってきたヤマザクラオオシマザクラなどが主で、そのほかに戦時中の燃料不足のときに伐った場所にソメイヨシノを植えています。一斉に咲いて一斉に散るソメイヨシノだけではないので、なのでいつまでもダラダラとあっちのサクラが散ったと思ったら別のサクラが咲いたり、という事態になり、散った花びらが淡雪のごとく溶けて消えてくれればこれほど楽なことはないのですが、残念ながらそうではないので毎朝散った花びらを掃いてから出勤してます。散った花びらを片付けた重さに比例して所得税や市民税が安くなるのなら良いのですが残念ながらそんなことはありません。

サクラは空気を読んでくれるわけではないので竹ぼうきで掃いていてもはらはらと散ります。「お、風流」といって散ってくサクラを散歩がてら撮ってゆく人もいて、内心「どついたろか」と思わないでもないのですが、さすがに思うだけで実行したことはありません。

ただそんな経験をすると「風流」というのは当事者ではない傍観者が状況を無責任に評して云うことなのだなあ、と理解できてきます。サクラが咲けば掃き掃除がついてまわるので傍観者でない私はサクラと風流が結びつかないわけで。久方の光のどけき春の日に、ってのを詠んだ紀友則はたぶん掃き掃除なんて毎日してなかったからこそあの歌を詠めたのではないかなあ、と。わが身に降りかからない無関係なことほど人は無邪気に惹きつけられるのかも、ってなんだか書けば当たり前のことを書いてる気がしますが。

住んでる街の近所の、私が掃き掃除しなくてもよいところにある桃(キクモモ)が咲きはじめてます。桃が風流とつながるかどうかはわかりませんが毎年惹きつけられてて、誰も居ないのを奇貨としてしばらく立ち止まってしばらく鑑賞していました。