東淀川区で気が付いたこと

きっとなんべんも書いてると思うのだけど、育った街が好きではありません。育ったのは23区外の緑の多い多摩地区でも人付き合い・近所付き合いがそこそこ濃い街で、10代の頃は自転車で黄信号でスピード出して走ったら私のことを知っている誰かがみていたことがあって、それがいつの間にかめぐりめぐって両親の耳に入っていて「頼むから自転車でスピード出してくれるな」とよく云われていました。

大学を出て就職して最初に大阪へ放り込まれ東淀川区に住みはじめたとき(自転車で黄信号でスピードを出したわけではないけど)誰かがみてるかもしれないということがない解放感に気づいています。生まれ育った街にあったどこにあるかわからない監視の目線の息苦しさにもそのとき気が付きました。

はてな今週のお題が住みたい街なのですが、正直、生まれ育った街でなければ、どこでも良いです。

いま住んでいるところは育った街とは異なるもののやはり多摩地区で、近所付き合いがまったくないわけではないですが最小限であるので息苦しくもなく、気楽です。ただし近所付き合いが最小限の代償としてか、目覚まし時計が鳴る前に窓の近くでヤマバトが「でーでーっぽぽーでーでーっぽぽーでーっ」と鳴くことがあるので厄介なところでもあるのですが。

書籍化記念! SUUMOタウン特別お題キャンペーン #住みたい街、住みたかった街

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by リクルート住まいカンパニー

citrus「the way I love」

小学校の教科書に「附子」という狂言があり、毒だから近づくなと言われたんだけどのぞきこんでしまい気になって舐めてしまうのだけど、なぜなめたかということの理由を無理矢理考え出さねばならなくなり、茶碗と掛け軸を割って「(大事なものを壊したので)死んで詫びようと思った!でも死ねなかった」ということにしようともくろんだ、そこに主が返ってきた、さあどうなる…というのが話の筋でした。とても惹かれちまい、以降、「え、どうなるの?」という話をみると引きこまれることがないわけではありません。

話はいつものように素っ飛びます。かつ、匿名を奇貨として云い難いことを書きます。

ローカル局のMXで青ブタのアニメを視聴して以降、MXになんのきなしにチャンネルを変えるようになりました。夏の夜、風呂あがりにテレビを点けたところやはりアニメをやっていました。前後はまったくわからないけど向こう見ずな姉が父との関係がうまくいかない血のつながらない義妹を説得し、自転車の後ろに義妹を載せて夕暮れ時の不忍池を経て全速力で駆け抜け京成上野へ向かい(この映像がとても鮮やかできれいだった)、駅のホームで海外へ行く継父と妹を引き合わせ、躊躇する妹の手をしっかり握ってから継父の許へ送り出し和解させていて、つい見ちまいました(最後の最後で継父に歩み寄る勇気を手を握ることで与える、というのがとても良かった)。京成上野から自宅に戻ってから義妹が継父と仲直りしたことを姉は心底喜んで泣いていて「妹思いの良いやつやん…」などと怪しげな方言でそのときは感心していました。が、義妹が姉の涙を手でぬぐおうとしたはずみにキスになりお互いの手を絡めてて「え?」となったものの、義理の姉妹であったとしても犯罪じゃないし好意があればそれほどおかしいことではないよなーと考れればそれまでで、でもあからさまには他人に言えないような経験を引きずる者からするとフィクションとはいえ「どうなるの?」と附子と同じように気になってしまい、途中のその回から最後まで、一人でいることが多い木曜夜の放映であるのを奇貨として微妙な背徳感を感じながら見続けていました。この微妙な背徳感は他人の恋愛を覗き見しているところから来るものでしょう。それも女子高生の恋愛なので、確実にキモいおっさんです。citrusというアニメです(9月上旬に放映終了)。詳細はなんらかの方法でアニメかマンガで触れていただくとして。

アニメの利点は動きを表現できるところです。途中から視聴してるのでヘタなことは云えませんがアニメのcitrusで印象的だったのは「手」です。既に書いた継父との歩み寄りに躊躇する場面のほか、他人に言われたことを気にして義妹が不安を吐露するなど妹が揺らぐと姉が手をしっかり握ったり(おそらくそこから伝わる体温が人を安心させるのだろうなあっと容易に想像がつく)、姉が自分以外の年下の幼馴染と仲の良いところをみてしまった義妹は膝にのせていた大きな熊のぬいぐるみのクマゴローの前脚を帰宅した姉の前で手で揉みはじめたり、キスシーンは手を絡め、義妹が姉の手を取って鼓動を感じさせたり、視聴するうちに手というのは意思がないと動かぬものでゆえに手って雄弁で意思表示や愛情表現の手段でもあるんだよな、ということに改めて気が付いています。また互いに器用ではないものの、冷静だった義妹が向こう見ずな姉の影響を受け・姉もまた義妹に影響を受け、変化してゆくさまが描かれてて、世上の評価は知らぬものの、良い作品を(こっそりと)視聴したのかなあ、と。

お題のマンガの話を引っ張ります。

アニメ放映後原作の漫画があるのを知り、はたらく細胞を優先していたのでまだ最初のほうを含めてすべてを読み切れてはいませんが後日談だけを少しずつ相変わらず背徳感を感じながら(こっそりと)読み進めています。

原作の漫画でも向こう見ずな姉はガチで友人や義妹のために全力で動いていました。その中で、義妹に出会う前の友人たちと姉は再会してお茶をし恋バナをしようとし、そこで友人たちがそのそばにいた見ず知らずの同性同士のカップルに対して聞こえぬように投げかけた些細な言葉に傷つき・同性2人というのが認めてもらえにくいことであることに気が付き、義妹に同じ目に遭わせたくないと考え悩むエピソードがありました(6巻のthe way I loveおよびNot give up love)。過去のおのれがまったく考えなかったことがないわけではないことでもあったのと、正直、無防備に読んでいたので抉られています。悩む姉とそれを見守る義妹がどうするか・どうなるかは原作をお読みいただくとして、恋愛を甘やかで優しいものばかりであるというようなご都合主義のファンタジーにせず、本人たちのせいではないもののときとして背負わねばならぬものをきちんと登場人物に理解させ考えさせてることに、非常に好感が持てました。それを書きたいがためにこのエントリを書いています。マンガをあまり読まないけど、マンガはまだ捨てたもんじゃねえ、と思えてます。

余裕のあるときに読み進めてて、まだ読んでいない巻があるのとさらに今月新刊が出るらしいのですべてを読み終わるまでちょっと時間がかかりそうです。「どうなるの?」と期待して読める本があることは幸福なことかもしれません。ただ、青ブタ同様、表紙が女子高生なので非常にレジに持って行きにくいです。啓文堂citrusの単行本を手にレジ前で挙動不審な美中年…じゃねえ、くたびれたおっさんが居たら声をかけたりせず、生温い視線でそっと見守っていただけると幸いです。

西原さんの毎日新聞の連載

いまでこそ白髪が増えましたがどちらかというと童顔なので、なめて見られることがなかったわけではありません。条文上瑕疵ないけど道義的にどうよ?というようなことに直面して、立場上なにもしないというわけにはいかないので道義的にいかがなものかということを縷々述べたあと先方の対応した相手がいかすけないやつで「道義的に問題があったとしてなんの問題が?」と云われたことがあって、そういうことでしたら今後は考えさせていただきます、と席を立ったことがあります(後日、別の人が頭を下げてアプローチしてきた)。あたりまえのこととして世の中は善人ばかりではありませんし、上記の事例に限らずどこかでいかすけない腹立たしいイヤな奴というのとは相対しなければならなかったりします。厄介なのは(私個人の性格に由来するものなのかどうかはわからぬものの)、いかすけない腹立たしいイヤな奴との記憶、というのは案外残るものである上にふとなんらかの拍子に出てきちまい、イラっとしちまうことがありました。正確に書くといまでもあります。

話はいつものように横に素っ飛びます。

毎日新聞には西原理恵子さんがおそらく10年以上続く、週一のマンガの連載があります。身の回りや高知のことが題材になることが多いです。でもって2016年の秋に「疲れてくると人を恨みはじめ」ることがあり「人生の中で腹の立つやつベスト10」祭りがはじまったりすることがあることを述べて(描いて)いました。「人生こいつどぶに叩き落してしまえ15位」くらいを考えるようになったら仕事をいったん中止して、対応策として揚げ物をするのだとか。それを読んでなんだか嫌な記憶と疲労の関係が腑に落ちて、絶対に疲れないようにするのはムリなので疲労をうっすら感じたら、なるべくその日に何を喰うかとか脳内で知ってる曲のメロディを追ったりして、恨みにつながることを遮断するようにしています。でも完全じゃないので、↑に書いた経験などがふと浮かんできてうがーってなるのですが。

西原さんの描く毎日新聞の連載を意識的に読むようになったのはその連載があった2016秋あたりからです。

そのちょっとあとだったか「女の怒りはポイントカード制」というのがあって印象に残ってるのですが、それまで耐えていたけどふとした任意の一言で「100ポイント目キャッシュバックキャンペーンがはじまる」(≒堪忍袋の緒が切れて怒りの言葉などが相手に振り向けられる)、ということを実例をふまえて書いていて(その実例がすごかったのだけど興味を持たれましたら単行本をお読みください)、呆れられそうなことを書くとそのポイントカード制は男の私も身に覚えがないわけではなくて、以降なるべく貯めないようにしています。

西原さんは上記の例でいえばイヤなことを忘れろとも云わないし怒るなとも云いません。すべての回でそうであったわけではないのですが、どこか「人間ってほんとどうしようもないよね」的なものの見方が基礎にあってそれがちょくちょくでてきて教訓臭くなく、その上で人の振る舞いについてのあれこれがあるので、おのれを含め「人間ってどうしようもないかも」と思ってる私はつい読んでしまうのです。昔からそうなのかここ数年の傾向なのかはわかりません。

今週は作家の重松清さんが西原家に来た時の話で、ただし重松さんも西原さんも酔っぱらっていて、ご長男に教科書に作品が載ってる旨のことを説明して教科書を持ってこさせたら重松さんが教科書に載ってる自作の赤入れ・添削をはじめたことについて述べていました。文章のプロでも過去に書いた文章を添削したくなるのかとちょっとびっくりしたのですがそれは横に置いておき、酒って身に沁みついているものを露わにしちまうものなのだなあ、と。でも重松さんがお酒を今後控えるとも思わないし思えないし、控えてほしくないなあという読後感がありました。なお念のため付記しておくと、後日新品の教科書と詫びの手紙が西原家に来たそうです。

はてな今週のお題が「好きな漫画」です。平成のひと桁はサンデーやWINGSなどをそこそこ読んでいたのですが、いまは連載の漫画はほぼ読んでいません。そんななかで毎週必ずチェックしてるのは毎日の西原さんの連載だけであったり。それが「好き」に該当するか極めて怪しいのですが。

森戸海岸から一色海岸へ

くだらないことを書きます。

三浦半島の西側に葉山という街があります。逗子や鎌倉より南です。夏に見た映画のなかでおそらく葉山の大きくはないけど印象的なチャペルがでてきて、そこはバージンロードの行く先の向こうが一面の透明ガラスになっていて、そのガラスの向こうには青い海が広がっているという非日常的な空間でした。男なので非常に云い難いことなのですが葉山はとても好きな洋菓子屋さんがあるところで何度か行ってるところでもあり、映画を観ながら「そんなところあったかな?」と思っていました。あったとしてもそこで挙式する予定があるわけでもないのだけど、天気がわりといいこともあって葉山へ足をのばしていました。

森戸というところであるのは映画でわかっていたので海に出て「海に面して大きなガラス張りになってる建物を探せばみつかるはずではないか」ということになって

森戸の砂浜を歩いていたら

4階が一面ガラス張りになってる建物をけっこうあっけなく発見しちまっています。さすがに中には入っていません。でも眺めよさそうで、あそこにチャペルをつくるのをよく思いついたな、と思っちまいました。

森戸からさらに南に進むと一色海岸にたどり着きます。一色海岸には葉山の御用邸があります。もちろん御用邸の内部は見学できません。が、つかわれなくなった敷地の一部は葉山町に貸与され、しおさい公園の名で整備されてて散策ができます。昭和天皇の海洋生物研究の拠点でもあったのでそれらをふまえて併設されてる博物館は相模灘の生物に関して詳細なコレクションがあります(貝類などは見応えがあるもののただ陳列してあるだけになってるのが残念なのですが)。

公園といってもけっこう立派で池泉回遊式庭園になってて鯉も居ますし

(おそらく人工の)滝もあります。

池泉式庭園や滝が御用邸時代にあったのかどうかはわかりません。

庭園と滝と博物館以外はあまり整備されずに自然のままです。袖を引っ張って小声で云われるまで気が付かなかったのですが冬ごもりの準備中であろう野生のリスが複数居て(カメラを向けたら逃げちまうかなあと思って写真を撮ってはいません)、野生のリスを身近に見たのはおそらくはじめてなのでしばらく観察してました。彼らけっこう跳ねるというか飛ぶんすね。どこへいくのかなあ、と眺めてると隣の御用地のほうへ去っていってます。想定外の零れ幸いがちょっとうれしかったです。

連休最後の日、葉山で羽根を伸ばしておりました

英語をあまりしゃべれないやつが考える英語のこと

きっと何度も書いていると思うのですが、大学生になって英語で「マクベス」をやりました。かなり影響を受けています。中高6年英語やってたし大学受験もなんとかなったのだから大学の英語もなんとかなるだろうという甘い幻想を「マクベス」は打ち砕くには充分で、たとえば言葉に複数の意味合いが込められてるのなんてざらでrumpという単語を臀部とも残飯ともとれたりしますし、魔女の「Fair is foul,and foul is fair」のように(劇場で公演するための作品なので文章にリズムがあり)韻を踏んだりしてる文章が頻出するので、それを生かそうとすると正直訳せっていっても辞書を漫然と引いただけでは適当な言葉がほんと見つからず、予習範囲を前にして気絶してるわけでもないけど時間だけがどんどん過ぎていっちまうことが何回もありました。でもって、あまりにも有名な「Fair is foul.foul is fair」のところ、セリフは続けてHover through the fog and filthyってあるので「filthy」のよごれた空気を生かして「きれいはきたない」とかなんとなくの訳ができてきます。最初はそう思っていました。でも読み進めると物語の骨格はすでにいた王殺しをおこなった新たな王が殺されるまでで、「王に対する血が流れた反逆」がまた別の「王に対する血が流れる反逆」をよびます。また登場人物が成功の裏でダーティな行為をした代償として苦しみもします。そして英国は道徳と法の分離があってないようなところが長く続いていたあいまいなところが持ち味の国です。日本語の意味する「きれい」とか「きたない」という単純なことではなく、意味的には正義は卑劣とかそんなふうにも読めないこともないので、「きれい」「きたない」が妥当とも思えないようになってきましたって、ここでマクベスの講義をしたいわけではありません。

熊本へ行ったときに内坪井の漱石の旧居が資料館になっていて見学しています。夏目金之助先生は松山時代は逐条解釈的に丁寧に細かく英語を教えてたものの、熊本時代は細かいところはともかくとして本を最初から最後まで読ませ、一冊読み通すことの面白さを伝えてた、なんてのを知りました。どちからというと私が大学時代にうけたマクベスの授業は夏目金之助先生の熊本時代に近かったわけで。もっともその後のおのれの人生の役に立ったか?と云われるとわかりません。マクベスの時代の言葉は実用英語にはあまり関係ありません。methinksなんていまはつかいませんし。強いていえば本を読むときになんべんも前のほうを読み返したり言葉の解釈について深く考えるようになっています。

いつものように話が横に素っ飛びます。

今月、株主になってる会社にどうしても行かねばならぬ用があって山梨の方向へ行ったとき、台風で中央線は高尾から西に被害が出ていて復旧工事のために高尾と相模湖の間の電車をかなり減らしていました。すべての電車をいったん高尾止まりにし、西に行く場合は乗り換えをしなければならなかったものの、高尾駅はアナウンスはすべて日本語です。海外からの訪日客がいて話しかけられて、河口湖へ行くというのでメモを作ってたどたどしい英語で説明しています。そのとき、高尾駅ホームには天狗がいるのですがずっと気になっていたらしく天狗をさしてあれはなんだ?と訊いてきました。薬王院という寺があって神仏習合の名残で飯綱権現も祀っててそのつながりで天狗が居る(ことになってる)のですが、一神教の人を前に神仏習合や眷属を英語で説明するのはどう考えても無理ゲーで、いちばん近いのはfairyと考えてguardianという言葉も使ってたどたどしい英語で説明したのですが、伝えたいことを英語に載せて満足に伝えられることができるか、と云ったらかなり怪しいです。なので話すといった英語の技能に関して私はあんまりえらいことは云えません。最近の新聞で、英語の教育が技能重視になってることも知ってます。たぶん、私のような英語を十全に駆使できない人間は少ないほうが良いはずです。

でもなんですが。

英語の技能はおそらく役に立つし大切だと思うものの、役に立つ技能を習得するのが学問かと云われるとどうだろう?と考えちまうところがあります。でもって役に立つ技能習得であれば正解があって、そして言葉は少なくて済みますから意図せず言語統制・思想統制が成り立ちかねませんって、おれが書くと誇大妄想的になるのですが。話をもとに戻すと、役に立たないかもしれないけど日頃使わない言葉が出てきて、であるからこそ辞書を片手に言葉を探しどれが妥当だろうとあれこれ思索し、想像力を働かせるのも大事なんじゃないのかなあ、と思うのですが、どうだろ。それはてめえが経験したからそう思うだけだろ、と云われてしまえばそうかもしれないのですが。

はたらく細胞

MXテレビという東京ローカルの地方局があります。わりとアニメを流します。さんざん書いてる青ブタもMXで放映されていたものです。記憶に間違えなければ去年の今頃にやっていたのがたしか「はたらく細胞」です。細胞を擬人化したアニメであることを知ってはいたものの青ブタのように残念ながらまともには観ていません。が、CMはよく流れてたはずで赤血球と白血球の擬人化したビジュアルだけは辛うじて覚えていました。

夏からずっと赤血球と白血球の数の異常が継続していて、ドクタから注意点や今後の方針など一応の説明は受けてはいるものの、赤血球や白血球がなにかなんてのはおぼろげな基礎的な知識しかありませんでした。知ったところで身体にプラスになるわけではないのですが「はたらく細胞」を余裕のあるときに単行本のほうを読んでいます。赤血球や白血球の役割が理解できたと同時に、「アニメ見とけばよかったかなー」というぷち後悔のほか、親が入院していた時に耳にした黄色ブドウ球菌とかが出てきて(院内感染で黄色ブドウ球菌の名前がでてきて説明を聞いてうっすらと理解したもののきちんとは理解したとは云い難く、ただひたすら頭を下げて善処をお願いしていた過去があるので)「うわああ20年前にあったら読んでおきたかった本だ」と本気で思いました。

でもって、擬人化してマンガにするというアイデアを実行した清水茜先生に脱帽です。