「煮え湯」というのをのんだことがあるかというとほんとに煮えたぎった湯を飲んだことはありません。たとえとしての「煮え湯」をのんだことはありますが、たいていの場合尻拭いです。この場合の「尻拭い」は誰かのケツに紙をあてがうわけではありません念のため。尻拭いってのは組織であれば、組織のなけなしの面目および信用を維持するために誰かが引き受けなくちゃです。尻拭いの場合やらないでもいいことをやらされたことが多いので理不尽だなあと感じることが多く導火線は短いほうで、原因を作ったほうの持ってゆきかたが悪ければいつのまにか胸ぐらつかんでて、「待て」と周囲にとめられたこともあります。第三者の存在というのはよくみせようと考える人の場合はもしかしたらブレーキかもしれないのですが、そもそも「よくみせよう」などとはこれっぽっちも考えないようなやつ(≒これを書いてる人)の前ではブレーキになりません。
おそらく「ゆるす」ということは起きたことを「しようがない」と呑みこむことかもしれません。でも「しようがない」の境地に行くまではやたらと時間がかかるところがあって「他にもやりようがあったんじゃないのか」とか分析しちまったり、けっこう時間がかかります。怒りとか煮え湯に関係するものは「ゆるす」ということがあんまりスマートにできません。怒りとかひっかかりとかの処理しきれないものに関して、ゆるすというのは文字にすれば三文字でできてしまうのだけどその実ほんとは時間がかかるものなのではないか、などと思ってるのですが、それは私が器用でない・ノウハウがないからかもしれないです。はてなで「ゆるす」ということが話題になってた時に、「ゆるす」ということをひとはどうやって処理してるんだろう、なんてことを考えちまうんすが。