オツカレサマデス問題(顔色を読むこと)

ものを教えるというときに怒り方というのがあるのをなんとなく知ったのは社会人になってからで、怒り方がうまくない人はいます。なんとなくその人から勉強した部分があります。
もしかしたら前にも書いたかもなんすが、Aさんという人がいて、わりと簡単に怒りっぽくて、不機嫌をけっこう簡単に表に出す人がいました。忙しいときにオツカレサマデスとあいさつすると、その人の場合、アンタねえアタシはまだ仕事あるねん、疲れても仕事あるんや、気ィ悪ぅなることいわんといて、とどなり返すのです。じゃあどうやって挨拶したらいいのか、ヒントはいいません。そのやり取りをふまえ、どういうふうにあいさつしたらいいんすか?と親しい先輩に尋ねたら苦笑ののち、ああいうのは気にせんといて、と答えが返ってきた記憶があります。で、なんとなくAさんにちかよらないほうがいい、という空気を察したのですが、このAさんというのはあまり失敗を許さず人の顔色をうかがうことを周囲に要求するところがあり、Aさんの下でAさんを巧く操縦していた人がいたときはよかったのですがその人が寿退職したあとは、周囲は日常業務のほかにその人の顔色をうかがわなくちゃなわけですから負担がでかく、疲弊が増えるとミスが増え、Aさんがネバーエンディングヒステリーになり、異動してきた人が耐えきれず長く続かなかったり別のところへの異動を願い出たりということが相次ぎ、Aさんはその役職を解かれるのですが、経緯を観察しててああいうふうにはならんとこ、と思うようにになりました。


私が指導を受けた先輩や上司は顔色をうかがうことも要求しませんでしたし怒ることはあっても失敗の理由や原因を挙げどうすべきかというのを示してくれたので理不尽な怒られ方をされた記憶はありません。
新聞の教育に関する記事を読んでてあんまり関係ないAさんのことを想起したのですが、人をコントロールする、というのはけっこう難しいはずです。怒りをあらわにしたり恫喝したり暴力をふるったり、という場合、その「嫌な体験・理不尽な怒られ方」というのを避けるための行動をひとはおそらくします。結果として「なぜ怒られたか」という失敗の原因は二の次になります。人を育てるという点ではもしかしたらそれで巧くいくこともあるかもですが、おそらく確率としてはあんまり巧くいかないほうなんじゃないかなと思います。


人に対する怒り方とか指導というのは系統だてて勉強したことが無いのですが私は人に教えるというときに自分が受けた教育法とか怒りかたとか指導とかがぽーんとでてくることがあります。教えるというのはもしかしたら連鎖するのかもしれません。けっこう奥が深い世界かも。でもそんなことないか。