ずるい

大人になっていろんなことを勉強したり経験をすると、ちょっとした先が見えてくることがあります。それは西の空を見てああ夕焼けがキレイだから明日は晴れと違うかな?みたいなものであったりします。どこかに問題点があって、それを修正しないとこのままいくとたぶん、壁にぶち当たるよってことがわかることがあって、誰も気がついてないときその声をあげた人間が主導権をとることがあります。そのほうが効率はいい。で、あるとき、というか大学生のころ、実際は冠婚葬祭なんですけど、手伝ったときに、手を上げたわけじゃないけど主導権というかそういう役割をちょっとになったことがあります。神経使いながらつつがなく終了させてから、まったく予想外のところから、反撃?を喰らう羽目になった。いわく
「楠田(仮)ちゃんだけ(目立って)ずるい」
というやつ。まったく手伝ってすら貰えなかった親戚から。
だれも動かないから動いたまでで、目立ってたつもりはないのだけど、副次的効果としていろんな人から褒めの言葉を貰ってて、それは汗をかいたぶんの報酬みたいなものだと思って誇りにしてたのだけど、それを見てずるい、というひとがいるのか、とびっくりしたのですが。子供じゃなくても理不尽な嫉妬をぶつけてくるんだ、と思い知ったのですけど。

大人になればなるほど「理不尽な嫉妬」というものを目の当たりにしてきました。自分にあてられたこともあるし、他人がその攻撃にあってるのを見るのもしんどい。
その嫉妬の根底にあるのはたぶん「なんで他人と違うんだろう」、ということなんだとおもいます。たとえるなら、おいしそうなパンケーキとそうでないパンケーキなら誰だっておいしそうなほうを選ぶんですけど、自分で研究してパンケーキを上手く焼けるようになった人を見て、まったくそんなことを研究しなかった人がパンケーキの出来を見比べて、もしくはパンケーキを上手く作った人を褒めるのを見て、「なんかずるい」と意思表示するのを何度か見てきました。ほんとはずるくはないのです。違ってあたりまえなのです。その違いは嫉妬を抱くほうにも原因があったりします。機会均等であったにもかかわらずそれを活用しないでほうけてて、差がついてから結果均等を叫んで、受け入れられずにその原因を外部に探し出して理不尽な嫉妬を外部たる他人にあてる。すごいさもしいよなーと思うのです。
だけど、嫉妬してる人はどうもそれらがわからないらしい。



一方的に嫉妬にさらされるほうは、たぶん、か弱い自我だったら耐えられないでしょう。理由がわからねばほんと理不尽だと思うだろうし、理由がわかっててもさして理不尽さは変わらない。それを見ててなんかこう声を掛けたくなって声を掛けても、そのとき気丈に振舞われると、正直、面と向かって何もいえなくなっちまい、言葉になんなくなるんですけど。
そういうときも、言葉って非力だな、と思います。