どういうきっかけでそういう話になったのか覚えてないけれど、男性の水着のサポーターで隠れてる重要部分ついて冷たい水中からあがってプールサイドにいるとどうしても興奮してなくても興奮してるような風にみえることがあって、それを血圧に絡めて解説をしたことがあります。もちろんプールサイドでの話ではありません。誤解を放置するとちとまずいかなと思って細かく説明したのです。相手の説がどうであったかは覚えてないけど詳細にこちらの説を説明したら先方は「自分を否定された」と感じたらしく、こちらにはそのつもりがなかったけどどうも、加害者対被害者みたいな構図になってしまい、後味が悪かった記憶があります。
相手が女性でこちらが男ってとこもなんかしら影響したかも。


私はどこか、説明とか批判、論争ってあったほうがいいのではないか、と思うほうで、それはなぜかと問えばその結果妥当な結論が得られやすいからです。自分の意見を持つのは間違ってないはずで、それを主張するのも必ずしも悪いことではないでしょう
考えてしまうのはどのような姿勢で意見を言うのか、なんです。
自説を通そうとするのだって、およそ理由があるはずです。自説を強固にしたければ攻撃的な口調で説得する人もいるでしょうし、自説を譲りたくなければはなから妥当な結論なんか目指してない人もいるでしょう。批判を許さないって人もいます。ひょっとしたらそのときの人は自説の承認をして欲しかっただけで、こちらの自説の紹介なんてしないほうが良かったのかもしれません。けど、そんなことはできない。たとえば「私はあなたの反論によって不快なの!」という人に対しては媚びなきゃイケないんだとしたら、しんどい。

そういったとき、はたしてどうこちらの説をわかってもらうか。そういう努力は無駄なのかなあ、と思うときがあります。
30過ぎても判りません。


また「相手を不快にさせない」説明のしかたってあるのだろうか、とか考えちまうのです。相手が不快な気持ちになればそれだけ素直にこちらの説明を聞かなくなるのがわかってはいるんですけど、どこかそうさせてるのでしょう。「論議は完全に相手を論破するのじゃなくて8割程度で抑えておいて、幾許か相手に花を持たすと円滑に進む」ということを坂本龍馬が言ってたらしくて、それを春先に聞いて以来参考にしてはいるんですけど、なかなか難しいと思います