言葉を畏れているか(30日本文一部補充)

安倍さんという人がどういう人かを知らないし報道による伝聞でしかしらないからあまりどうこう言ってはいけないとおもうけど、未だに印象深いのはいつだったか土井たか子衆院議長に対して公然と「間抜け」と批判したことです。別に社民党員でもなければ土井シンパでもないけども、普通の感覚の持ち主なら理路整然と批判はしても「間抜け」といった「罵倒」という方法をとらないのです。およそ罵倒することは自らの評価を落とします。なぜって普通、罵倒した人そのものを「罵倒してる人≒感情を制御できない人」と見てとるのです。政治家でありながら、「平気でこの人は他人を罵倒するんか、すげー」と思ってました。政治家として致命傷じゃないの?とも。「感情制御できない人≒話が通じない人」という印象を与える可能性があるからです。ところがそのうち、首相になってました。周囲や忠告してくれるスタッフがそばに居て諫めたりしてればいいのですけど。
ちょっと前に松山市駅前で内容は別論としていくらか悲壮感ただよう口調の首相の街頭演説に出くわしましたけど、その言動が愛媛の人たちにどういう印象を与えてたか、わかりません。彼の言葉にどれだけ支持が集まったか効果があったのか自民党劣勢といわれた愛媛の選挙結果にちょっとだけ興味が有ります。(後日記→首相の応援の効果が無かったのか自民党候補は落選)


話がちょっと飛びます(いつもとんでるやないかい、という批判は甘受します)。

罵倒を受けたとき、その対象であったり、また対象が自分でなくても普通は感情を揺さぶられます。罵倒自体が罵倒されたほうの全否定に近いからです。全否定ほどいやなものは無いでしょう。それがいきなりであればあるほど、また、根拠が無くって強い調子であればあるほど、「悪いことをしたのだ」という印象が一方的に植え付けられることが多かったりします。そもそも罵倒自体にあまり根拠が無い場合が多いし、罵倒は感情的なことであったりしますから(理知的な罵倒というのがあるのかな?)罵倒したほうとされたほうの話が通じない事が多かったりします。異論反論があったとしても罵倒されたことによって対話がそこで「とりつくしまもない」といった状態になるのです。卓袱台をひっくり返したのに近く、その場での反論が困難、原状回復が困難になる、といったことがもどかしく、心を揺さぶられるんだと思います。罵倒は受けるほうも、見てるほうもしんどいのです。
これは罵倒に限らないかもしれません。「いいたいことをいう」ということもそういう「とりつくしまもない」状態に陥りやすいのではないかとおもってます。「いいたいことをいう」のは他人との関係性の中に自分を落とし込む必要が無いのです。一方的にいえればいいから相手の反応は必要ないです。で、「いいたいことをいう」というのは、たしかに魅力的なことなのです。楽だからです。他人に配慮しなくていいからです。いいたいことを云えたほうは、快感だけですから、面白いし愉しいとおもうんですけど。「いいたいこと」を云われたほうは、それを受容せえ、といわれても無理でしょう。「いいたいことをいう」というスタンスのときは一方通行が前提で、かつ、「いいたいことをいう」ほうには自説の修正という選択肢がないのです。相手の意向を問わず無言で無理やり押し倒してるようなもので、「いいたいことをいう」ほうは「相手がすき」ということから押し倒す行為を正当化をしてて、修正の余地は無いはず。そんな相手を受容せえ、といってもなかなか難しいはずです。


お前はすぐシモネッタに結びつける、とのお怒りを受けそうですが「罵倒」や「いいたいことをいう」というのは前戯がないまんま、もしくは潤滑のジェルがないのに思うがままに穴に何かを突っ込まれてしまうのと同じであったりするのではないかと思ってます(ゆえに私はそういう経験の無い童貞や処女のひとは「いいたいことをいう」方向性が高いんじゃないかと睨んでますが←嘘ですよ)。どうもこの発想が5年くらい頭から離れなくて「罵倒」や「いいたいことをいう」人は男女を問わずに自分だけ気持ちよければオッケイで性的な悦びを他人に与えようとしない人なんじゃないかとか思うようになっちまったのですが、証明は不可能なので大きな声では言えずにここでこっそりつぶやいておきます。


人を説得させる、腑に落ちさせるのは罵倒でもないし感情的な言葉ではないでしょう。人を説得させる、腑に落ちさせるのは、たぶん、言葉だけじゃなかったりします。そのうちの一つは言葉の裏にあるようなこいつの言ってることは正しいと思わせるような、バックグラウンドです。たとえ、どんな正論を言ってもバックグラウンドが無ければ誰も聞いてくれないでしょう。
寂聴さんが人をひきつけるのは修行をつんで、なおかつ小説を書くことで言葉に対して細心の注意を払い続けてきたからだと思います。そのバックグラウンドが寂聴さんの発言に信用をもたらします。さらに相手の反応を見て説話をしてるはずです。小説も読み手を想像して書かれてるからでしょう。裁判官の判決文が(たまに)説得力を持つのは、その法的理論構成のほかに、幾つもの訴訟を経験して判断してる職業的信用というバックグラウンドがあって、さらに裁判官個人がその名を汚さぬように妥当を思える結論を多方面から検討して導き出すから説得力があるんじゃないかと思います。
小説家や僧侶、裁判官に限らずそのバックグラウンドは一朝一夕には出来なくて、小さなことの積み重ねなんだと思います。積み重ねは他人への配慮というか他人との関係性の中に自分を落とし込むことも重要ですが、さらに重要なのは言葉をつかうほうの心構えというかなんというか、言葉に対して「畏れ」のようなものを持つか否かじゃないかとおもいます。なんちゃって仏教徒ですがあえて聖書の言葉を借りれば「最初に言葉があった。言葉は神であった」っていうのに、ヒントがあるような気がしてならなかったりします。


自分が必ずしも言葉に対して「畏れ」を持ってるかといったら、常にはもってなかったりします。なんかこう、ネットで言葉に関するトラブルを的確にみちまったり聞いてしまったので自戒の意味を含めて書いておきます。