普通、組織では何らかのカタチでまず結果を叩き出さないと、他の人に認めてもらえないことがあります。また、組織に限らず本人が苦しんでも結果を叩きださないと社会は同情さえもしてくれません。結果を残せなかったら、ああ、あいつはあかんかったか、と、退場後に社会は口に出すだけです。それをみてうっすら首筋が寒くなり結果を出そうとがんばった。状況の可変期間をすぎて結果を残してはじめてそのプロセスが明らかになって、ねぎらいの意味で同情の言葉をかけられるのかとわかったときに、自分は大人になったのだろうか、と思ったことがあります。同情はされるのも嫌いですし、するのも苦手です。つか、同情はほんとに役にたたないかも、と思うのです。十日の菊にすぎません。また、社会では有能な人はみんなからもてはやされますしうっとうしい人は排斥されたりします。それをみて他山の石じゃないけれど、自分が他人にとって有能であるように思われたい、うっとうしい人間にならないように気をつけなきゃ、と、どこか無意識のうちに思ってたみたいです。「自分を社会にあわせよう」、という努力をしてきました。


ところが世の中ではそうではなくって、ネットを知ってから「社会が自分に合わない」と考える人が居るのを知り、声高に主張するのを知りました。他人は関係なく自分の快さえあればいい、とりまく環境が悪いのは自分は悪くないのであって社会や環境のせいで悪いんだ、という考え方です。地団駄踏んでれば誰かが何とかしてくれるんだろう、という考え方なんでしょう。

それでカタがつく場合がある。地団駄ふみゃあ、なんだって何とかなりえる世の中になっちまった。
私の努力はなんだったんだろう、と、たまーに思います。