新潮45のこと

私は大学で法学部に入りました。あほうがくぶをでちまったのでいまは法曹関係の職ではない一介の(勤務先は最近4階の)サラリーマンです。しかしそんなやつでも憲法は学習しました。憲法には表現の自由の項目があります。表現の自由がなぜ大切か、というのを学びます。いろいろ説明があるのですが、各人が自由にさまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取する機会をもつことは、その者が個人として自己の思想及び人格を形成するのに大事であるから、というのがいちばんスッキリしました。これはおのれの属性にも関係してきます。何度か書いたのですが、私はいわゆるマイノリティに属します。同性の同級生相手にキスをしたい・キスをされたい、と考えていた時期があります。もちろん口には出しません。どこかおかしなことだと思っていたからです。それがおかしなことではない、と知るのは、それらを扱った表現物(新潮文庫の「仮面の告白」を含む)に触れてからです。この国に表現の自由や多様な意見とか多様な表現がなかったら、苦しんでいたでしょう。
表現の自由って、なにが大事かって、くりかえしますが、いろんな意見に触れてそれを判断する材料にすることがあるからです。仮に「政治的に正しくない」ことを云ったとして「それは政治的に正しくない」ということを指摘されたほうは「政治的に間違ってたところで死ぬわけではない」し「正しくなかったら生きてちゃいけない」わけでもないです。主張の正しさや妥当性ということについて対話なりを通して、対話した人やそれを読んだ人は認識を改めたりすることがあるからです。もちろんそれらの対話を通してそれが第三者から軽蔑に値するものであったとしても、結果として自説を曲げないのも咎めることはできません。多くの人が正しいとすることを唯一無二のものとして受け入れろ、というのは統制社会のすることであったりします。
「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」を載せたことにかんして出版社としてそれらの事態を恥じるのは理解できなくはないけど、繰り返しますが対話にならず一方的な意見を垂れ流したままの新潮45の休刊は、表現の自由に救われて・新潮文庫に間接的にいくつかのことを学んだことのある人間からすると、もやもやするところがないわけではなかったり。