おい天麩羅を持ってこい
と大きな声を出した。するとこの時まで隅の方に三人かたまって、何かつるつる、ちゅうちゅう食ってた連中が、ひとしくおれの方を見た。部屋が暗いので、ちょっと気がつかなかったが顔を合せると、みんな学校の生徒である。先方で挨拶をしたから、おれも挨拶をした。その晩は久し振りに蕎麦を食ったので、旨かったから天麩羅を四杯平げた。
翌日何の気もなく教場へはいると、黒板一杯ぐらいな大きな字で、
天麩羅先生
とかいてある。おれの顔を見てみんなわあと笑った。おれは馬鹿馬鹿しいから、天麩羅を食っちゃ可笑しいかと聞いた。すると生徒の一人が、
しかし四杯は過ぎるぞな、もし、
と云った。四杯食おうが五杯食おうがおれの銭でおれが食うのに文句があるもんかと、さっさと講義を済まして控所へ帰って来た。十分立って次の教場へ出ると
一つ天麩羅四杯なり。但し笑うべからず。
と黒板にかいてある。さっきは別に腹も立たなかったが今度は癪に障った。冗談も度を過ごせばいたずらだ。焼餅の黒焦のようなもので誰も賞め手はない。田舎者はこの呼吸が分からないからどこまで押して行っても構わないと云う了見だろう。


夏目漱石「坊ちゃん」より

ものには限度ってものがあって、冗談で済むものと、そうでないものがあります。
ほとんど当事者は冗談のつもりなんだろうしそれをやってて楽しいからやってるんだろう、ということもわかるのだけど、傍から見るともの妙なことをしてるぞ、というようなやつを偶然聞いたり知ったり見ちまって、自分が当事者じゃないから良いようなものの、他人事ながらなんでそんなことをするんだろうと思考していたら、地下鉄の乗換駅の蕎麦屋さんを見て思い出したのが、坊ちゃんの下のくだりです。  

「冗談も度を過ごせばいたずらだ。焼餅の黒焦のようなもので誰も賞め手はない。田舎者はこの呼吸が分からないからどこまで押して行っても構わないと云う了見だろう」
というやつ。たぶん漱石説があってる気がしてならないです。田舎者に限らず、都会の人間も呼吸がわからねばやっちまうんですけど。そしてまたこういうことが出来る人は、自然体でさらっと躊躇なくやっちまう、真っ黒焦げにしちまうのがすげー、とおもうんですが。程度、というのがわからないんだとおもいます。



以下、坊ちゃんから離れます。


面白ければいい、という発想はそれなりに結構なんだと思いますけど、対人関係には限度ってあると思うし、またお前は下半身に話を持ってくのか、といわれるとあれですが、セックスのとき自分の快感だけ追ってくひとが嫌われるのと同様に単なる面白がりというのはどこか見苦しいな、と思えるんですけど。自分が当事者じゃなければ痛みはないんですが。

また、黒焦げにしちまう人は、空気を読むとかそういう能力ではなく、自らを客観視できないんだとおもうのです。客観視できないから他が見えずに、制御が利かずに、やりたいことをやってどこが悪いの?ということになるんだと思います。

やりたいことをやってどこが悪いの?
という人に対しては
子供っぽくて見苦しいっすよ。
としかいえないんですけど。