遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ
梁塵秘抄という歌集の中の歌です。随分前にも述べたのですが、遊女が子供の声に触発されて身体を売る我が身の罪深さを嘆く歌、とする解釈があって、なんか妙にそれが説得力があって、ずっと記憶に残ってるのです。その、この歌を詠んだであろう(読み人知らずなのです)本人の衝動が(私は売春で生計を立てているわけでもないのですが実際に好きでもない人とセックスをしたとかその帰りに子供が公園で遊んでる声をを聞いてしまったとか、そういった経験があるせいか)なんか個人的になんとなくわかるので、私はどちらかというと、詩というのは詠む人の衝動の深さがなんとなく重要なのかな、と実体験から思っていたのです。日常のいっぺんを剥ぎ取ってどうするの?綺麗な情景を剥ぎ取ってどうするの?むしろなんかその衝動の重さを突き抜けて表現されるべきものが、実は詩なんじゃないかな、と思っていました。
ただこういった能書きは、本居宣長が云う「くだくだしきこと」であって、もっと作品に自由に触れて鑑賞したほうが良いのかも知れません。ゆえに、このエントリを見てしまった方、上記のエントリの記憶を、頭の中で消しゴムで消して、どうぞ詩に触れてください(と無茶をいってみる)。
数日前に詩についてのエントリをかいて以降、実は複数の人から意見やメールを戴きまして恐縮しています。なるほどなあ、と思うことがあるのです。無知ゆえ、吸収するところがいっぱいです。感謝しております。
取急ぎ御礼まで。