嫉妬する弁財天の存在(もしくはおのれに影響を与えたかもしれない見えない存在)

たぶん何度か書いてるはずなのですが吉祥寺に井の頭池というのがあって、その井の頭池のほとりに居るのが弁財天です。井の頭池はデートスポットとして選択肢に入る場所であるものの、男女間で井の頭池へ行くと弁財天が嫉妬してそのカップルは破局するという都市伝説が私が学生時代からありました。同性二人はどうなるのか?という疑問は横に置いておくとして、多感な十代の頃によくうろついてた吉祥寺に嫉妬する弁財天が居ることを知ると「頼めばなんでも願いをかなえてくれる都合のいい存在はいない」かもしれないというのを察します。そうなると天神様へ行ったからって受験が安泰とは限らないとも察し、切り開くのはおのれのみと悟ります。さすがに受験のときには亀戸の天神様へ行ってはいるものの、どこかで神様というのは作用的にはがんばる奴の肩を押すために存在してるのではないか?という意識はいまでもあります。信仰とは云い難いものの、でも弁財天が示してくれたことだと思っています。影響はデカくていまでも「都合のいい存在などいないはず」という微妙に疑り深いところがあって、この微妙に疑り深いところは欠点かもしれぬものの報道で流れてるような過大な献金を要求するような団体へ属すことを避けることができた要因のような気がしてなりません。

数字を追ってるうちに「なんか変だぞ」というようなことがあって、疑り深いので片っ端から資料を読み込んで全体像をつかんでから「これってどういうことですか?」というようなことをやったことがあります。稀有な体験だったのですが、そのとき当事者の態度・言動から、他人にばれたらまずいことをしているときに「周囲にはわからないであろう」という発想・錯覚が当事者にあることを知りました。周囲に誰も居ないと思うからこそどんどんエスカレートするわけで。そこで我が身を振りかえると、私が仕事をやってて不祥事や間違いを起こさなかったのはやはり弁財天の影響です。見えてないつもりでも弁財天は見えているから嫉妬するわけで、見えなくても見えてることを知ってしまうと行動は誰が見て無くても10代の頃からどこか自制してて、その見えてないつもりでも弁財天に限らず何か誰かが観ているかもしれぬというその意識を知らず知らずのうちに体感的に10代を過ぎても私は取り込んでいたようで。道を踏み外さずにいるのはもしかしたら弁財天の影響という意識があります。なお、井の頭でひざ枕をしましたが、残念ながら(…残念ながら?)アオカン(よいこのみんなはわかんなくていいです)はしていません。嫉妬が怖いヘタレです。

はてなで宗教に関するエントリを読んでいて我が身を振り返りたくなって文字にしてみたのですが、あらわになったのは弁財天で、関係ありそうであまり関係なさそうなものになっちまいました。

以下、くだらないことを。

信仰があったとしてもそれを自慢するものでもないし、無かったとしても卑下するものでもたぶんないはずです。信仰を持ってることも悪いことではないはずです。

はずですが。

勧誘が住んでいるところに来ることがないわけではありません。そういうとき両親が眠ってる寺は曹洞宗なので「曹洞宗なんですごめんなさい」と謝るとたいていすぐに無罪放免になり、それで味をしめ、曹洞宗であることを謝ることが多いです。謝りながら「なんでおれなんで謝ってるんだろう」って意識はあって、おのれの行動に巧い説明がつきません。でも行動を巧く説明できない矛盾てちょっとはありませんかね。ないかもですが。