援助交際の遠因

私は一切ゲームの類を持ってません。珍獣です。故に間違ってるかもしれませんが、いくつか仮説を持っています。もってないから見えることがあります。それは幻想かもしれませんが。


ゲーム自体はたぶん、予め用意されたプログラムの中での話しだと思っています。その用意された選択肢の中から選んでいるにすぎないとおもいます。たぶんその選択肢はかなりあるものと推察しますが、自分で選択肢を選ぶこと≒コントロール可能です。違うのかもしれませんけど。
ゲーム機がこれだけ普及してきたことをつらつら考えると、ひょっとしたら社会もコントロール可能かも、という世界観、他人をコントロール可能なのが当たり前、という認識がどこかにあるかもしれない、とおもうのです。心の片隅にでも。人によっては。


恋愛について言えば、本来生身の人間って他人をあまりコントロールすることができません。成熟した人格であるなら尚のこと。実は人間がコントロールできないからその余禄として恋愛とかの醍醐味があるんだとおもうのですが、援助交際の場合はたぶん他人をコントロールすることが大人にとって容易であり、自分の自己愛が援助交際に限って言えば大人側には壊れずに済みます。故に、成熟した人格の大人とつきあうのがしんどい大人が援助交際にはしるのかなと愚考します。暴論ですが。
もっと言えばオタク系の美少女ゲームや美少年ゲームに熱中するというのは、完全にコントロールが可能で、たぶん恋愛の疑似体験を自分の自己愛が壊れることなくすることが可能だとおもうのです。はやるのはわけないことだと思います。傷つくことなくその場はハッピーになるわけですから。
現実はしんどいことばかりですし、そういうのにはしるのもわからないでもないのですが。



現実の社会というのはコントロールはほぼできないものと考えて差し支えないとおもうのですが、他人が存在せざるをえないコミニケーション(恋愛とかを含む)において理想なんてありえないとおもうのです。けどかなしいかな、理想をどこかに設定してしまう。
何度か過去に書いた自説を懲りずに引用すると、理想像の自己を実現不可能な理想に置いてしまうと永遠にそこにたどり着けないとおもいますし、現実の自分を見てそうじゃないとなると現実を否定して架空の世界に走ったり、ひきこもったり、相手をコントロールしようとしたり、または不安になって構って貰いたくなるのだとおもいます。
こころというのが何故人間の発達にでてきたのかはよくわかっていません。ただ、仮説として、自らが心がある、ということが認知できたとき、たぶん相手にも心があると推察できるわけで、他者の心理を推測することが人間の生存に何らかのプラスになったから、心というのが人間に重要なものとなり、いまにいたる、というのがあります。
相手をコントロールしようなんてのは相手をそもそもこころがないものと扱うに等しいとおもうのです。そういう振る舞いは相手を人間以下として扱ってるのではないかとおもうのです。
言い過ぎかもしれませんが。なんとなく援助交際に世間が嫌悪を抱くのは、そこらへんに起因してるのではないかとおもいます。




巧くまとまらないですけど。




ちょっと前に学園へブンのあらすじを知って、やってみようかとおもったのですがまだ買ってません。たぶんはまるきがします。
犬を飼うソフトもニンテンドーDSか何かであるのを知ってたのですが、可愛いとおもいつつもなんか微妙なきがしてニンテンドーDSもソフトも買ってません。
ただ、ゲームにはまってみたいかも、という誘惑はあります。


  ビルコレさん、新色のニンテンドーDS Lite欲しい!


なんかこう書くと抽選でもらえるらしいです。もし当たったら、体験記でもアップします。