犯給法5条1項1号の(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者を含む。)に同性2人は含むかについて

民法の影響が及ぶ範囲では役所に婚姻届を提出し戸籍に婚姻の文字が記載された場合を法律婚と呼ぶことが多いのですが、仮に婚姻の届出をしてなくても婚姻と同じ状況にあるカップルであれば民法の条文にはないものの判例のなどにより事実婚もしくは内縁という名称で保護を与えていています(最判S33・4・11・民集12巻5号798頁ほか)。たとえばこの内縁関係にあって仮にその関係が破たんしたとき、法律婚カップルと同じように一方に責がある場合はもう一方は慰謝料請求の余地があります。婚姻届けを出す婚姻(=法律婚)と婚姻届けを出さない場合(=事実婚)との差はないわけではないのですが、破たん時の慰謝料請求など同じところも多いです。なおややこしいことを書くと、内縁や事実婚というのは判例等で形成された概念であって特に条文があるわけではありません。ではカップルを構成する2人の性別が同じであったとき婚姻届けは受理されませんが共に生活していたとき、それを仮に内縁関係=事実婚として扱うべきか否か、というと、いまのところ答えはありません。むしろどちらかというと否定的です。

話をいったん横に素っ飛ばします。

否定的ではあるものの例外が無いわけではありません。米国で同性婚を行ったカップルの一方の不貞行為を原因として事実婚が破たんして慰謝料請求を求めた事例では「同性のカップルでも、実態に応じて、一定の法的保護を与える必要性は高い」とし、婚姻が男女に限られる現時点では内縁の成立は男女に限られるとしながらも男女の内縁関係と同視できる事情がある場合には同性間でも内縁に準じた法的保護に値すると判断し、慰謝料請求を男女間とは法的利益の程度が異なる点から減額しながらも認めています(宇都宮地裁真岡支判R1・9・18)。いまのところこの内縁の成立は男女だけど同性間であっても内縁関係と同視できる事情があれば内縁に準じた法的保護に値するという真岡の判断が否定的でないおそらく唯一の事例です。

話を元に戻します。

犯罪被害者等給付金支給法という法律があってその名の通りの犯罪被害者に給付金を出すための根拠法です。遺族が給付を受ける場合においての条文を抜き出すと

第五条 遺族給付金の支給を受けることができる遺族は、犯罪被害者の死亡の時において、次の各号のいずれかに該当する者とする。

一 犯罪被害者の配偶者(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者を含む。)

二 犯罪被害者の収入によつて生計を維持していた犯罪被害者の子、父母、孫、祖父母及び兄弟姉妹

三 前号に該当しない犯罪被害者の子、父母、孫、祖父母及び兄弟姉妹

で、括弧つきではあるものの

(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者を含む。)

とあり、なので婚姻届を役所に提出していなくても男女2人で内縁=事実婚状態であれば遺された一方へ給付金を出すことが出来ます。ではカップルを構成するのが同性2人であったときは?というとやはり否定的で、愛知県公安委員会は「現在の社会通念上同性同士の関係に内縁(事実婚)関係が成立するのは困難であるといわざるを得ない」とし不支給と裁定していました。その不支給の裁定について法の下の平等を定めた憲法14条に反するとして裁定の取り消しを求めた裁判があり名古屋地裁名古屋高裁と係属し名古屋高裁は令和4年8月に支給対象者に同性パートナーを含むとは解釈できないという判断をし、その後最高裁に係属していました。

その判決が今日ありまして、犯給法の

(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者を含む。)

という条文の語句についてなのですが、判決要旨を読む限り最高裁第三小法廷は犯給法の制定意図などを踏まえた上で「事実上婚姻関係と同様の事情にあったといえる場合には犯罪被害者の死亡により民法上の配偶者と同様に精神的経済的打撃を受けることが想定され」「打撃を受けその軽減を図る必要性が高いと考えられる場合があることは、犯罪被害者と共同生活を送っていた者が犯罪被害者と異性であるか同性であるかによって直ちに異なるものとはいえない」とし、「犯罪被害者と同性であることをのみをもってして婚姻の届出をしていないが事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者を含むに該当しないものとすることは犯給法5条1項1号の括弧書きの趣旨に反する」と述べ

(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者を含む。)

について犯罪被害者と同性の者も含まれるとし、26日付けで名古屋高裁の判決を破棄し名古屋高裁へ差戻しとなりました。このことにより犯給法に関しては同性2人だからといって今後門前払いということはなくなると思われます。

でもって、真岡の事例に続き、同性2人と異性2人を同列に並べた画期的な判断だとおもわれます。

ただ非常に書きにくいことではあるのですが反対意見が付されていて、それが傾聴に値するものなのです。本件は名古屋高裁へ差戻になるのですが本判決では

(事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者を含む。)

ということに関し要件については一切触れられておらず、同性同士の関係においてなにをもってして事実上婚姻関係と同様の事情と認めるかは「それほど簡単に答えが出せる問題ではない」とも反対意見は指摘しています。婚姻とはなにかというのにもつながるのですが、それらの指摘は無視できない部分もあり、おそらく問題の完全解決にはしばらく時間を要しそうな気が。

『ゆびさきと恋々』最終話まで視聴して

東京ローカルのMXで夜に放映していたアニメ『ゆびさきと恋々』を(録画したものですが)最終話まで視聴しました。原作は女性向けのマンガで、ここを書いているのはおっさんで、形式的にはどう考えてもnot for meなのですが、匿名を奇貨として以下、書きます。詳細は是非本作をご覧いただきたいのですが、大前提としては聴覚に不自由がある手話を操る大学生雪さんと雪さんの大学の先輩の逸臣先輩の物語で、いつものように幾ばくかのネタばれをお許しいただくと題名に恋々とあるように後半は雪さんと逸臣先輩の仲が良くなります。

本作の秀逸な点はいくつかありますがそのうちのひとつを挙げろさもなければ殺すといったとき、強いて挙げるとすると聴覚に障害のある雪さんの立場の描写があった点です。つまり映像をみているこちらも雪さんと同じ条件であったことがありました。逸臣先輩と雪さんは手話のほか読唇で意思疎通することが多いのですが、発話でなく唇の動きで「ぎゅーしていい?」と逸臣先輩から尋ねられた雪さんは許諾するものの、逸臣先輩にハグされず別のことをされてしまします(何をされたかは鏡の前でぎゅーしていい?と唇の動きに注意して真似ると判りますが判らない場合は原作もしくはアニメの7話をご覧ください)。それは結果オーライでほほえましい話のような扱いではあるものの、精緻な意思疎通が常にできるわけではないことの描写になっていて、唸らされています。また逸臣先輩の雪さんへの態度が物語の途中から微妙に変わり、雪さんの友達や逸臣先輩のバイト先の店長が気が付く程度に声音も変化します。しかしその変化が補聴器越しにしか聞こえない雪さんにはわかりません。その逸臣先輩の声の無いしかしやさしく雪さんの名を呼びかける描写もきちんとありました(4話)。指摘されて「どんな声だったのか?」と雪さんが悲嘆ではなく良い方向に思いを巡らす描写もあって、どってことない些細なエピソードなのですが、映像でそこをきちんと描いてる点も唸らされています。

そんなふうに雪さんの置かれた状況を喜劇にも悲劇にもできたはずなのにそれをせず、雪さんは逸臣先輩と出会うことで世界が広がり、物語が進んでも飽きることがありませんでした。制作陣にブラボーを叫びたいところであったり。

物語が進むにつれて印象に残ったのが視線もしくは見ることについて、です。もう幾ばくかのネタバレをお許し願いたいのですが、雪さんの幼馴染である桜志くんは手話で会話してる状態では雪さんの視線を独占できることに気が付き手話を勉強したことを逸臣先輩に酒の席で語ります(なぜ逸臣先輩と桜志くんが一緒に酒を呑んでるのかは10話をご覧ください)。視線もしくは見ることは意図的に行うことが出来て意図的にできる行為だからこそ誰かの視線の対象になったと察したときになんらかの感情を引き起こすことが有り得る…というのは理解できないわけではなく、視線を独占できなくなってしまった悔しさを含めその微妙な機敏を映像に巧く載せてあって説得力があって、唸らされています。関連してくだらぬことを書くと、雪さんによって変化したのは桜志くんで逸臣先輩も彼を嫌いになれず、ヒロインは形式的には雪さんなのですが個人的には桜志くんがこの物語のヒロインだよなあ…とも思っちまったり。

最終話では雪さんへのメッセージというカタチをとりながらドイツ語圏で育った逸臣先輩の半生が語られ、異なる言語で苦労しながらも作中の言葉を借りれば「会話で言葉が通じた瞬間の嬉しさ」について触れられていました。話が横に素っ飛んで恐縮なのですが、1話で雪さんがスマホのメール機能で意思疎通をしようとしたのを制し逸臣先輩は読唇で意思疎通しようとしそれが巧く機能していたそのシーンが妙に印象に残っていて、それは(発声はなくても模索しながら)会話で言葉が通じた瞬間で、とても良いと思えた場面であったので「ああそこにつながるのか…」と鳥肌がたっています。他にも逸臣先輩と雪さんの間で模索しながらも「会話で言葉が通じた瞬間」というのは物語の中で出てきていて、その模索が物語の軸のひとつでもあったのだな、と改めて気付かされました。話を元に戻すと逸臣先輩のいう「会話で言葉が通じた瞬間の嬉しさ」は得意ではない英語で似たような経験があるのでひどくよくわかり、ゆえにそこらへんを意識しないながらもひっかかって、つい最後まで視聴しちまったのかもしれません。きわめて個人的なことも絡まりくわえてバカの証明にもなりかねないのでこれくらいにして。

ここ数年意思疎通についてうっすらと考え続けていたのでどうしてもその方面からの感想がでてきちまうのですけど、もしかしたら上に書いた感想はきわめて変で万人受けせず噴飯ものかもしれません。くわえてマンガやアニメについて詳しくないのでこのへんで。

青ブタ展見学

本を読むときはその読む本が映像になってることなどまずないので本に書かれている描写を想像しながら読みすすめることが多いのですがここ何年か青春ブタ野郎シリーズというラノベを追っかけていて、そのラノベの場合はアニメを先に視てしまったので原作の本を読むときには先行して視聴した映像を思い浮かべながら読んでいました。ここで「描写を想像して読むこと」と「第三者が作った映像を頭に入れて読むこと」とどっちか良い悪いということを述べるつもりはないのですが、青ブタで後者を体験して悪くはないかも…などと思うようになっています。「空気を読む」ことや「孤独は怖くないけどひとりぼっちを笑われるのがイヤ」という物語に伏流水のように流れる主題がわたしに微妙に刺さったというのもあって銀座松屋青春ブタ野郎シリーズの展覧会があると知り(検査と診察のあとヘロヘロであったものの)万障繰り合わせの上、見学しています。

会場内には物語の中で出て来たシーンをアニメの設定に沿って再現してあります。詳細は原作もしくはアニメをご覧いただきたいのですが

物語の中で主人公咲太の妹であるかえでちゃんは日記を書き続け、引きこもりから脱しようと決意します(『おするばん妹』)。人は考えて書いたものに引き摺られるのではないか?書くという行為は人を人たらしめるのではないか?という仮説をフィクションとはいえ青ブタを知って以降持っているのですが、それはともかく、その決意のノートが復元というか展示されていました。そしてなぜそんなことになったのかはやはり原作もしくはアニメをご覧いただきたいのですが

かえでちゃんが消えたあとにかえでちゃんの書いた日記を翔子さんが風呂場のドアの外で入浴中の咲太に聞こえるように朗読するシーンが再現されていました。それを書いた人は消えても書いたものの中にその人は残る、という書けば当たり前のことをフィクションに載せて巧く表現しているのですけど展覧会にあたって限られたスペースの中で風呂場のシーンを再現したのはGJ!であったり。

物語の中では咲太の友人である双葉理央が居る物理実験室がよく出てきてて

その物理実験室も再現されています。

砂糖は二酸化マンガンの瓶の中に入れてあるのがお約束でしっかり二酸化マンガンの瓶が置いてあって、思わずふふふ…となっています。他にも

桜島先輩が住むマンションの郵便受に入れた咲太の手紙、とかマニアックな再現があったのですが、桜島先輩が藤沢市のどの地域の何階に住んでいるのか今回の展示ではじめて知りました。作品理解の解像度がいくらかあがったのですがそんなものあげてどうするの?というのは横に置いておくとして。

いちばん興味深かったのはアニメの台本の展示で、いちばん上に数字が振ってあり→次いで画面の動きなどの説明→下部にセリフ等で、台本でもアニメは歌舞伎などとはちょっと違うのだなあ、と。

展示そのものは作品を知らなくてもなんとかわかるようになっていますが、知っていたほうがより時間泥棒になります。

以下、くだらないことを。グッズ販売のコーナーがあって、事前に(作中ではコーヒーをビーカーで飲むので)物理実験室のビーカーが売られていることはリサーチ済みでした。(もちろんそれでコーヒーを飲むほかに計量カップの代わりにしようとしていて)それを狙っていたのですが、残念ながら平日でも昼の段階でその日の分は売り切れでした。ここをどういう人が眺めてるのかわからないものの念のため書いておくと、物販狙いの場合は早いほうが良いかと思われます。なお松屋は24日まで。

B型猫説をめぐって

信じている人を軽蔑するわけではないものの噴飯ものだと内心思ってるもののひとつに血液型に関しての話があります。そもそも人間を4種にしか分けてない時点で粗く、なぜかたいていB型はよく云われません。「B型は猫っぽい」という説があって魚好きという意味ではなくて、人は本来は思ってることと違う表情ができるらしいのですがB型と猫は思ってることと違う表情ができない、というところからくるものです。私はBなので「いや、そんなことないはず」と強く否定したいのですが、証拠を集めることが出来ずにいます。

話が横に素っ飛んで恐縮なのですが、私は卵が苦手です。今日カレーパンを買ってきて貰っていて、しかしそれを一口食べた段階で(東京では稀にカレーパンに茹で卵が入ってることがあるのですが)あまり好きではない茹で卵の触感が舌に有りました。どうも顔にでていたらしく「どうした?」と訊かれちまっています。買ってきて貰った手前もあって「あ、ダイジョウブ」と取り繕いながらなんとか切り抜けたのですが「思ってることと違う表情ができない」というB型猫説を今日も補強しちまっています。

ここではてな今週のお題「卒業したいもの」を引っ張るとB型特有かもしれない「思ってることと違う表情ができない」というのをなんとかしたいな、と。

でも「旨いもの食ってるときにまずい顔されたらイヤだ」と云われると「ああ確かに」とも揺らいでて・意思弱いところが露呈しちまって、ちょっとムリかもしれないのですが。

春は揚げ物

日曜は小田原に居ました。

桑田佳祐さんの曲に金目鯛の煮つけというのがありますが桑田さんの地元の茅ヶ崎を含む相模灘では金目鯛が獲れます。他にも(押し寿司や干物になる)アジや(小田原おでんのつみれになる)イワシのほか、カマスも獲れます。ただカマスはやはり干物や塩焼きしか知らず…というかそれしか食べたことがありませんでした。

屋台でカマス棒というものを見つけ「春は揚げ物というし…」というくだらない理由で実食してます。カマスを棒に刺して揚げたもので、醤油かソースを選べます。俗にカマス焼き喰い一升メシというくらいにカマスにはごはんが進むような不思議な味がありますから当然フライでもイけて、ソースや醤油なしでもなんとかなりそうな気はするものの、ソースをかけても美味かったです。見知らぬものを前にして好奇心に引き摺られて失敗することがあるのですが、今回は巧くいったかな、と。

でもって不思議と骨がなくどうやったらそうなるのか謎で

看板には「小田原名物!北条一本抜きカマス」とあってああ北条家にまつわる秘法でもあるのかなと一瞬想像したのですが、残念ながら(…残念ながら?)数年前に中骨を抜く器具を独自に開発して特許も取得したそうで(≒つまり北条はあんまり関係なさそうなのですが)。骨が無いことについて腑に落ちてます。

以下、くだらないことを書きます。

腹ごなしに御幸浜を散策していて、しかしこの日の小田原は南風強く波高め。画像は近づきすぎて慌てて逃げる数秒前で

このあとなんとか逃げおおせてます。最初から近寄らなきゃいいのですが、海って眺めてると近寄りたくなることってありませんかね。ないかもですが。

出遅れ

コロナ禍の第4波のあたりで『感染症の日本史』(磯田道史・文春新書・2020)という新書を読んでいます。本書はスペイン風邪にかなりページ割いていますが麻疹についても触れられていて磯田先生は「麻疹が歴史を動かした」と主張し、幕末の文久2年(1862年)に長崎にやって来た異国船から麻疹がつたわる→4月に長崎警護を担当していた佐賀藩の藩主が罹患し(P122)→移動する修行僧によって江戸へもたらされ6月には小石川の寺院がクラスターとなり市中にも感染が拡大(P119)→京都でも商業地から御所周辺に拡がり天皇の身のまわりの世話をする公家が次々と感染し出仕できなくなり→御所も当然人手不足気味に→孝明天皇が閏8月にあらためて攘夷を強く意思表示する(P128)という経緯をそのひとつとして紹介しています。

話はいつものように横に素っ飛びます。

麻疹は罹患すると免疫抗体ができるほかワクチンで防ぐことができます。私は麻疹に罹患したことがありません。ので、ワクチンということになるものの、世代的にはおそらく1回は受けているはずなのですが、記憶がありません。

idsc.tmiph.metro.tokyo.lg.jp

都庁のHPを眺めるとどうも2回接種が主流のようで、住んでいる街の病院のHPを参照すると小児向けは別として昨夜の段階で「成人用は既に底を尽いていて受付できぬ」という告知が出ていました。忙しさにかまけててどうも対策に出遅れた模様です。あははのは(もしかしたら笑いごとではないかもしれない)。

話を元に戻すと、ある一定の世代はワクチンを2回打っている人も多く今回の麻疹が「歴史を動かす」ことはないかな、と想像します。ただ最初に読んだときは「ほほう」程度ではあったのですが、感染力の強さを新聞等であらためて知ると肌感覚としては「そりゃ攘夷をいいだすのはやむを得ないかな」感があります。さすがに攘夷は唱えぬものの、麻疹は手洗いやマスクだけでは防げぬようで個人では限界があるゆえにちょっと怖さはあったり。かといって怖がるだけではなんのプラスにもならないのでワクチン接種のチャンスを狙いつつ、しばらくいつもと同じ生活を維持する予定です。

同性2人の婚姻届不受理に関する札幌高裁の判断についての雑感

家族法に関しての、すっごくめんどくさい話を書きます。しばらくおつきあいください。

婚姻に関する法律は民法にあり、しかし民法の婚姻の条文をいくら読んでも近親婚の制限や重婚禁止などの規定があっても同性同士の婚姻について禁止する条項がありません。ですが不思議なことにできません。というのは婚姻の効力について規定のある739条に「婚姻は戸籍法の定めるところによりこれを届け出ることでその効力を生ずる」というのがあり、現行の民法より先に戸籍制度があったのでそれをそのまま利用していて、つまるところ民法の婚姻に関する規定は戸籍法等にもたれかかる構造で、その戸籍法等が男女2人の婚姻届提出を前提にしているので、できない側面があります。正確に書くと戸籍法の細かい部分を定めた戸籍法施行規則の付録目録第12号に婚姻の届出に関する様式が定められててそこには父母との続柄欄に片方が男、もう片方が女とあるので、どちらかが男でもう一方は女である2人を想定してて、同性二人ではそこに記入不可ですから届出しても受理してもらえません。同性のカップルがもし法的利益を享受するために同じ籍に入るとしたら現在の唯一の手段は一方が親、もう一方が子になる養子縁組です。でも同性のカップルは親子になりたいか?といったらそんなことはないはずです。

婚姻に関して戸籍法と民法のほかに憲法に留意する必要があります。憲法24条に

24条1.婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し、婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない

2.配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

というのがあってその語句を素直に読めばおそらく「両性の合意」では確実にない「同性2人の合意による婚姻」は憲法は想定してないのではないか、と思われてました。というかあほうがく部を卒業しくたびれたおっさんになったわたしも最近まで思っていました。

でもなんですが。

夫婦別姓に関する訴訟(最判H27・12・16民集69巻8号2586頁)で、この24条について「婚姻は当事者間の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきであるという趣旨である」と最高裁判決理由中で述べています。この最高裁の趣旨を基にすると24条が「婚姻は当事者間の自由かつ平等な意思決定に委ねられてる」規定であるならば両性という語句に囚われる必要はないわけで、ゆえに同性婚を否定したものではない、とも解釈できないこともないのです。だとすると、民法がもたれかかる戸籍制度および戸籍法施行規則によって婚姻が事実上異性間2人のものに限っている実情は

第14条 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない

法の下の平等を定めた語句を持つ憲法14条に違反するのではないか?という疑問が生じます。(夫婦同姓に関する最高裁判決理由が十中八九ターニングポイントになったと思われるのですが)夫婦同姓の訴訟以降、14条と24条に関連して同性2人の婚姻を認めない民法戸籍法等は違憲ではないのか?という訴訟が各地で提起されています。

めんどくさい話を続けます。

先行した(2021年3月17日の)札幌地裁では「同性愛者が婚姻によって生じる法的利益の一部すら受けられないのは合理的根拠を欠いた差別的扱い」として14条の法の下の平等について違憲と述べ、24条について婚姻は両性の合意のみに基づくとの規定は「婚姻は両性の合意のみに基づくとの規定は、両性など男女を想起させる文言が使われるなど異性婚について定めたもの」と解釈し(つまり夫婦同姓のときの最高裁の解釈をそのまま同性婚にはあてはめることはせず)、同性二人では婚姻届けを提出できない現行の制度が婚姻の自由を定めた憲法24条には違反しない≒合憲と判断しています(+立法不作為に関する損害賠償請求は棄却)。

その控訴審判決が札幌高裁でありました。

判決要旨を読む限り、まず24条について札幌高裁は「その文言のみについてとらわれる必要はなく、目的とするところを踏まえて解釈すべき」であると述べた上で24条1項は「婚姻するかどうか、いつ誰と婚姻するかについては、当事者間の自由かつ平等な意思決定に委ねられてるという趣旨を明らかにしたもの、と解され」とし、その上で2項の「婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」という条文を踏まえたうえで同性間の婚姻についても両性間の婚姻と同じ程度の保証していると考えるのが相当、という解釈をし、現行の異性間にのみ認められる婚姻の制度や同性愛者の扱い等に丁寧な検討を加えて異性間の婚姻のみ認めて同性間の婚姻を認めず代わる措置もない現行制度は憲法24条の規定に照らして違憲、という判断をしています。

ついで14条について「同性愛者と異性愛者の違いは人の意思によって選択変更し得ない性的思考の差異である」と述べた上で「性的指向に差異がある者であっても同じように制度的保障を享受すべき地位があり」「それを区別する合理的理由はない」とし、その上で同性婚を許容していない現行の婚姻制度は同性愛者は婚姻制度による法的効果を享受することが出来ず現行の制度は「合理的根拠がない」とし、さらに契約や遺言を用いて婚姻に似た一定の効果を得られるものの代替的措置によって同性愛者が婚姻できないことの不利益を解消することが出来るとは認め難いことを述べた上で、現行制度が差別的取り扱いである、と指摘したうえで「違憲である」としています。

今回の札幌高裁の判断はどちらかというと条文の文言に囚われていません。くわえて24条について「婚姻するかどうか、いつ誰と婚姻するかについては、当事者間の自由かつ平等な意思決定に委ねられてるという趣旨を明らかにしたもの、と解され」という解釈を取り入れていて、個人的にはぐうの音も出ない程度に「よく云ってくれた」感があります。

ただ裁判官は独立しているので今後似たような判決がでるとは限りませんし、おそらく最高裁まで行くと思われます。実質あほう学部卒なのですが元法学部生として興味がある事柄で、ゆえに事態を注意深く見守りたいと思います。