22日、耳鼻咽喉科にて

いくらか汚い話を続けます。先週から一日一回、もしくはニ回鼻血がでてました。人間不思議なもので理由があれば納得できるのですが、理由が思いつかないと不安になります。乾燥してればこれは乾燥のせいだよなーと納得できるのですが、降雨でもしっかり鼻血になってました。血圧を疑って(死んだ両親が使ってて遺してある)血圧計をひっぱりだしてきて計測しても上が118下が80とかです。連続3日目くらいから「耳鼻咽喉科に行くべきかな?」と考えはじめたのですが、(耳鼻科系の医師がコロナ感染を指摘して検査して発覚という報道をみたせいもあって)この状況で鼻血ごときで耳鼻咽喉科へ行ったら迷惑なんじゃないかという意識があり、なかなか踏ん切りがつきませんでした。ただマスクが汚れて在庫が尽きかけてるのとリアルとネット双方の周囲の助言もあって連続6日目になる22日に住んでる街の耳鼻科へ朝一番で行ってます。ちょっと幸いなことに空いてて、でもちょっと不幸なことに出物腫物ところ選ばずで待合室で待機してるときにも出はじめてしまってポケットティシュを出せず目撃した看護師さんが持ってきたウエットティシュでなんとかなる失態もありました。

診察で出血場所は特定できました。それを説明しながらドクタは「処置をしたいのだけど、処置をするためにはキシロカインという局所麻酔を使わざるを得ない、あなたはキシロカインがダメなので(以前めまいの症状でお世話になったことがあってそのときバカ正直にそのことを書いていて)、キシロカインしかないここではできない」といい「次善の策として薬を7日分出すのでそれで様子を見て欲しい」と続けました。できない理由を述べてくれた先生を困らすつもりもないので了承したのですが、カルテを書きながら問わず語りでキシロカイン以外の薬のある所へ紹介したいけどこの緊急時で(多摩地区の)大きな病院がコロナで精一杯であることをのべ、最後にこちらを向いて「万一出血が止まらなかったり大量出血になったら躊躇なく救急車を呼んで欲しい」と忠告がありました。ドクタは穏やかな表情なのですが目は笑ってなく、なんだろ、いまはほんとに平常時じゃない・緊急時なんだなあ、と。おのれの鼻が深刻なのかそうじゃないのかわからぬものの、個人的な瀬戸際の7日間がはじまります(世の中でも瀬戸際がずっと続いていますが)。処方された薬はまじめに服用する予定ですし、救急車も大変だと想像するので万一の時は7119に相談してからどこか受診するつもりです。

おおそれたことは書けないけど個人的体験からすると「小規模のクリニックでは対応できないけど大規模な病院ではいまは対応してもらえない」という人はわりと居るかもしれないなあ、と推測します。この推測がはずれてればいいんすが。

忙しい日々がいくらか続いてて週末の夜に呑むアルコールが楽しみのひとつだったのですが、瀬戸際なのでしばらくそれもお預けです。代わりに風呂上がりのアイスクリームを目の前にぶら下げるニンジンとする予定で、バニラアイスにごま油とかバニラアイスにシナモンを振ったリンゴジャムとか想像して乗り切ります。

続続マスクの話

あまりきれいではない話をします。

出物腫物ところ構わず、とよく言われるのですが、ここのところ鼻血が出やすくて、よりによって融通してもらったマスクの着用時にもマスクを複数汚してしまっています。手洗いで洗濯してみたのですが血というのはなかなか落ちないもので痕がやはり残ってしまいました。まだ手許には来てないものの配給されるであろう政府からのマスクは意地でもつかわぬつもりでいたのですが、背に腹は代えられないのでおそらく十中八九つかいます。マスクなしは万一、無症状で感染しちまったときに他人にうつしてしまう可能性を否定できないので。

今週、マスク不足もコロナもちょっとでも収束の兆しが見えてくれればいいのですがどうだろ

今朝の日曜美術館を視て

今朝やっていた日曜美術館の「疫病をこえて 人は何を描いてきたか」がとても面白かったです。で、終わらせてもいいのですが、もったいないので続けます。

(きたない話で恐縮ですが)鼻血で汚してしまったタオルをお湯で下洗いつつ観ていたので作品の詳細な名前を覚えていないのですが、日本の美術を振り返る部分では絵巻物が取り上げられていました。目に見えない疫病を可視化して鬼のようなものとして見立て・描いて、その鬼も対話が可能で仏事に参加してるものには危害を与えない場面を描くことで救いがないわけではないことを示しつつ、(絵巻物はえてして物語ベースなのですが)疫病を物語に載せることで終わりがあるという希望を見せる描き方であることを紹介していました。

西洋の部分では悪魔が跋扈する絵が描かれ、またエストニアの聖堂にある死の舞踏という絵に触れてその絵は趣旨としては死者の声に耳をかたむけそれを生きる知恵に反映させるべきでは?という内容の絵が印象に残りました。ほかにも民衆を煽りつつデマを飛ばす悪魔に唆された預言者や敵とみなしたものを処刑する場面の絵画などがあったのですが、疫病というものが人を正常な判断から迷わせる、というのがよくわかりました。

シロウト丸出しの印象ですが、日本の場合は疫病は人はどうすることもできないけど神仏にすがれば希望がないわけではなかった、西洋は疫病に対して夢も希望もないけど模索する人々がいた、というようにとらえました。このとらえ方が正解かどうかはわかりません。番組では「疫病と向き合う」だったのですけど、対比がちょっと興味深かったです。

最後に江戸の疱瘡絵(疱瘡除けの錦絵)の歴史を踏まえながら現代日本のアマビエが取り上げられててヤマザキマリさんなどの作品が取り上げられてたのですが、なんだか眺めてるうちに不思議とほおが緩むというか、絵で人間の心が明るい方向へ動くものなんだなあ、と思わされました。芸術に疎いものの、良いものを視聴できた気が。

偽ヤンニョム

おそらくその現象は関東だけだと推測するのですが、住んでいる街のスーパーは納豆が2月末からずっと不足気味です。あっても個数制限がかかっています。こめかみに小銃を突き付けられて「喰え、さもなくば殺す」と云われない限り、食べれないことはないけど手を伸ばそうとは思わないアイテムのひとつなので私は困ってはいません。ただずっと不思議だなあ、と思ってて、寝る前のどうでもいい不要不急の電話をしてるときにそのことに触れたら電話口で少し沈黙の後「一都六県のなかで一番最後まで茨城は新型コロナ感染者がでなかったからじゃない?」という解をきいて「へええ」と一度は納得してました。でもいまのところ岩手のじゃじゃ麺のキットが品薄になってないので、いまから思えば電話口の解はほんとはボケで、突っ込むべきところだったのかな、と思っていますって、話がずれた。納豆はご飯のともとして簡易だからでしょう。

はてなのお題が「#おうち時間」です。でもって家に居る時間が多い≒「おうち時間」は本格料理にもってこいなのではないか、というのがはてなの提案のようなのですが、納豆の品薄状況をここ一か月半ほど眺めてると、ほんとのところはわからないけど本格料理に取り組める余裕がある人は少数派なのでは?って、他の人の台所事情の人力詮索はともかく、この状況下でも出勤せざるを得ない部門に属してていくらか疲弊してて、丁寧な生活であるとか、そして丁寧に妥協せずきちんと作る本格料理を作る余裕は私は恥ずかしながらあまりありません。

たとえば今週の木曜はコチュジャン、ケチャップ、醤油、砂糖、酒(この比率は等分でもいいし辛くしたければコチュジャン多めに)にチューブのニンニクを合わせて韓国のヤンニョムのたれに似せた偽ヤンニョムのたれを作り、それで豚コマとタマネギを炒めてキャベツを添えてます。偽、とかいたのはソウルなどにおける本格的なヤンニョムのレシピを知らないので偽ヤンニョムです。去夏から土井善晴先生の著作や新聞の記事を目にするようになってから、くだらないことを書くと疲れてるときに脳内に家庭内の味の自由さを許容する土井先生が降臨することがあります。いちばん最初に偽ヤンニョムの炒め物を作り口にしたとき、ひとくち目で脳内の土井先生が「こんなんでええんですわ」とささやいたので、偽ヤンニョムでもいいや、と割り切って作っています。実際、偽ヤンニョムの炒め物でも出来立ては食が進みます。人体実験済みです。

岡山県の伊原木知事が「5月6日に終わるとは思わない、長い闘いを覚悟して」と発言していたのを知りました。シビアな状況が続いているので私も連休明けに事態が好転するとは思っていません。丁寧なレシピに沿った料理は事態が好転してからのお楽しみにとっておき、偽ヤンニョムの炒め物を含め、しばらく脳内の土井先生が「こんなんでええんですわ」とささやきそうな、くたばらないで済むように食が進みそうなものを作るつもりです。

読書の時間

東京には丸善という大規模な本屋があるのですが昨今の営業自粛要請の波を受けて勤務先に近い日本橋のほうは閉鎖中です。通勤に使っているJRの沿線のいくつかの駅には本屋もある商業施設の入っている駅ビルがあるのですが、食料品と薬局以外は片っ端から閉まっています。少し前まではあらかじめ探したい本があるとかないとか関係なく退勤時にふらっと本屋に寄れたのですがそれもかないません。本屋が閉まっているというのはなかなか寂しいなあ…、これが長期戦だと厳しいなあ…と思っちまいますって、なんとなく話がまた不穏な方向に進みそうなので読書に関するくだらない話をします。

桂文枝師匠の三枝時代の根多に読書の時間というのがあります。ある事情で内容と関係ない本の表紙をかけていて、それを知らずに子供が学校で読書の時間のためにその本を持ってゆきます。先生に「何を読んでいるんだ?」指名され「竜馬が行くです」と答えると「じゃあ声に出して読んでみろ」となり、元気よく「ぬけるような白い肌、柳のような細い腰をぐいと引き寄せ…」と読み上げます…とこの先は・詳細は・なぜそうなったかは落語を聴いていただくとして、たとえ表紙と内容が異なっていたとしても、(子供にそれを期待するのは難しいですが)ミスを防止するためには開いて最初のページを確認すれば防げるわけで、でも他人のそのテの失敗は笑えるので「ははは」と笑っていたのですが。

青春ブタ野郎シリーズ」を読んだ話をここでさんざん書いた記憶があります。青ブタはラノベなので表紙が若干、刺激的です。「プチデビル後輩の夢を見ない」であればミニスカかつ生足の女子高生おしりから悪魔の尾が生えて背中には翼が生えていますし、「ハツコイ少女の夢を見ない」に至ってはミニスカで生足で学校の机に座る女子中学生をいくらか下から眺めるアングルでスカートの中は見えないもののでセーラーの上着が風に吹かれて腰のラインがちらっと見える表紙です。でもってまとまった時間となる通院先の待ち時間などを青ブタ用の読書の時間にあてていたのですけど40半ばのおっさんにもそこそこ恥じらいがあって、それらの表紙のまま待合室や検査室の前で読むだけの度胸はさすがにありません。なので表紙が穏当な本のブックカバーをひっぺがし、それを再利用して掛けていました。(青ブタは店を変えていたものの)それまで同じいつもの駅ビルの本屋で本を買うことが多かったものですから似たようなブックカバーが並びます。なので読みたい本とは違うの本を持ってきてしまって、「さあ読むぞ」と期待を膨らませながら待合室で本を開いた時点で気が付いて、うわあああああああああしっぱいしたあああああああ、と声は出せぬものの悶えたことが一度ありました。開いて最初のページを確認すればわかることなのですがそれをしなかったので、以降、読書の時間の落語をちょっと笑えなくなっています。

話がいつものようにとっちらかって恐縮ですが、住んでる街の本屋が開いてるかどうか・本屋へ行くのが不要不急の外出になるかどうか確認してないのですが、伊井圭という作家に興味を持ってて散歩がてら本屋にそのうち本を探しに行く予定です。読書が趣味です、と云えるほどたくさん本は読んでいません。上記のように失敗したことはあるものの、読書をすると決めた読書の時間に読書に没頭する行為、もちろん本を読むのは好きです。最初にループするのですが、その本を調達するためのよく寄る本屋がどこも開いてないってやはりちょっと寂しいなあ…

「宵越しの金は持たない」考

勤務先のそばの地下街は人が少なくてほんと出来の悪いSF観てるようでこんなのめったにないのでいちど見学をお勧めします…と不謹慎なことを書きたくなるのですが、東京を取り巻く状況はやはりシビアで、それについて書けばしんどくなってくるので、今日も毒にも薬にもならぬ関係ないことを書きます。

三方一両損という落語があります。その落語はとある江戸っ子の左官が印形と三両入った財布を拾うところからはじまりまして、その財布に書きつけがあったので書きつけどおりに財布の持主であろうある大工のところへ行き、財布を渡そうとします。しかしこの大工も江戸っ子で(よりによって酒が入ってて)、財布と書きつけは引き取ったものの、おれは宵越しの金を持たない主義でよ、いちど懐から出た金はもうおれのものじゃねえからよ、礼は言うけどその三両はおめえが引き取ってくれ、といいます。そこで左官がすかさずほんとですか?と引き取れば話はすんなり行くのですがそうはいかず「拾った金を懐にいれることなんてできるわけねえだろう」と言い返し、喧嘩になります。仲裁に入ろうとする人もいたものの騒ぎになり、はては大岡越前が裁くことになります。結果どうなるかは落語をお聞きいただくとして、問題は大岡越前です。この大岡越前享保年間に町奉行にはなっているのですが、江戸落語が盛んになるのはそれから半世紀くらいあとです。なのですべておそらく後世の人が作った創作であろうと思われます。もちろん私は日本文学科でも史学科でもないあほうがく部卒なので保証はできません。でもって、問題はと言っておきながら大岡越前はほんとはわたしはどうでもよくて、この三方一両損でずっと気になってるのは「宵越しの金は持たない」のほうです。

江戸時代には職種や身分によっては講もしくは無尽というのがありました(たとえば加賀藩の武士階級の無尽については磯田道史先生の「武士の家計簿新潮新書)」に記載があります)。左官や大工の場合、太子講といいまして聖徳太子信仰がありまして聖徳太子を崇敬していたのですが、それが工賃の話し合いの組織でありつつ、資金を融通しあうような頼母子講(≒無尽)の役割を兼ねてることもあった(はずな)のです(4代前にさかのぼると大工だったので太子講についてうちに資料があればいいのですが残念ながらさすがにありません)。もし大工や左官が「宵越しの金を持たない」主義だったら太子講は成り立たないことになっちまい、なので推測の域をでないのですが「宵越しの金は持たない」も実はフィクションなんじゃないの?とうっすら疑っています。

もちろん江戸っ子は大工や左官のみで成り立ってるわけではないです。が、おれんところのがいちばん良いとどこの町会も考えてる浅草の三社祭の神輿のように見栄っ張りなところがあったりします。それらや落語が江戸の人間は金遣いが荒い的な印象をうんだのではないかな、と。

☆を頂いている方がちらっと江戸っ子の「宵越しの金は持たない」ことについて触れられてて、内容はほぼ関係ないのですが、読んでてつられて積年の疑問を思い出しました。個人的には放蕩に憧れがないわけではないので「宵越しの金は持たない」酒の呑み方をしてみたいと思いつつ、いちど呑みすぎて吉祥寺より西へ帰らなくちゃいけないのに乗換駅でも何でもない浅草橋駅から130円区間の切符を持ったまま終電後の桜木町駅に居たことがあるので怖くてやっていません。宵越しの金を残しながら呑む方が安全かなあ、と。

意識低め、アンテナ低め

だからなんだと云われそうなことなのですが、世の中の動きは気になるものの、接するメディアをいくらか絞りはじめてました。きっかけはすごく些細なことが二つ重なったからです。

一つ目。4月5日付の星条旗新聞に、(2月にアウトブレイクのあった韓国の)大邱の在韓米軍基地のスクリーニング検査についての記事があってhttps://www.stripes.com/news/pacific/smell-test-us-army-garrison-in-south-korea-tries-new-way-to-sniff-out-coronavirus-1.624940

The Army garrison in Daegu, the center of South Korea’s coronavirus outbreak, is trying a new way to sniff out people who may have the respiratory disease — a smell test.

Beginning Friday, people trying to enter U.S. installations in the southeastern city were being randomly asked if they can smell apple vinegar as part of the health screening process that has been in place since the outbreak began on Feb. 20.

一部抜粋して要約すると基地へ入る人に念のためリンゴ酢を嗅がせている、ということなのですが、この記事を読んで感染症にかかると嗅覚に異常が出るのかと知って印象に残ってて、先週微熱と倦怠感があったときに咳はないけど不安になって、(リンゴ酢はないので)米酢をいちど嗅いでます。ちゃんと酢のにおいがわかったので単なる疲労か風邪だと安心?して改源を服用してます。しかし米酢の瓶のフタを閉めながらなんだか不思議と笑えてきてて、あれこれアンテナを広げすぎて神経質になりすぎてるかなあ、と自覚しました。

二つ目。実は住んでいる街でお米が手に入らなかった時期があって、滅多に泣きつかないのですが(米穀系日本人なのでナシでは生きてゆけないと)彼氏に泣きついてなんでもいいからあったら代わりに調達して欲しい、と米をお願いしていました。ここでそのお米を使いはじめてたのですが、炒飯があんまり美味しくないのです。感染症にかかると味覚に異常が出る、なんてのを民放でやっていたのでそれを思い出し、咳も倦怠感もないのにいくらか不安になってました。でもふと冷静になってもしかしてお米がいつもと違うからでは?と気がつき、(宮城ヒトメボレでなく)茨城ミルキークィーンという銘柄であることを確認し念のため検索すると全農のページにミルキークィーンはもちもち感のある米と書いてあって炒飯に向かないことを悟って、ほっとすると同時にこのこともやはり笑えてきました。要らない情報まで拾って不安になって神経質になっていたのかなあ、と。

人としての器が小さい、ということにもなるのですが、時間は限られてるし先月から疲労も蓄積気味で体力も余裕もあんまりない状況下で、(血液の値に不安があって感染症関連の情報収集をはじめたものの)情報をたくさん知っていたからといって、それを巧く捌ききれてるか?・それがおのれにとって有益か?、というとそうではないかもしれぬと考え、最低限の世の中の動きと仕事に直結しそうなこと以外はあまり考えず情報もさして追わないようになっています。マスク着用と手洗い励行のほかは、意識低め、アンテナ低めでいいや、と。

意識低め、アンテナ低めですが、

御衣黄が咲いてることは察知してます。でもって、今年は桜の時期が思いのほか長かったような。