体外受精を利用した出産の一方の意思の不存在時の父子関係

民法772条1項に「妻が婚姻中懐胎した子は、夫の子と推定する」とあります。別居であっても条文を素直に読めば婚姻中の男女の間に生まれた子は基本的に婚姻中の男女の子となります。推定する、というのは、推定できない事情があればひっくり返ります。たとえば面会が出来ない状況≒収監されてたり、とかです。

民法は基本は明治時代にできているので時代に即しておらず、現代では想定外のことがあります。その一つが体外受精です。別居になる前に夫婦して体外受精に関して病院を受診しており、しかしその後別居にいたり、別居後に男性側の主張によると女性が勝手に書類を代筆して病院に提出し出産に至り(条文に即して言うと離婚前なので772条で処理するので夫の子として推定されます)、その後に離婚し、男性側は父子関係を否定するために訴訟を起こした事例が奈良家裁で以前あり、奈良家裁は父子関係を否定しない(父子関係を認める)判断をし、大阪高裁も父子関係を否定しない判断で、最高裁に継続していました。

民法の772条の婚姻中の男女の間に生まれた子に関しては夫の子と推定すという条文に関して言うと、単に別居していた事実では覆りにくく、また簡単に答えの出ない「親子はなにか」ということにもつながるのですが、DNA鑑定で血縁関係がありえないとしても法律上の親子関係は否定されない判断を平成26年7月に最高裁がしています。

ただ奈良の事例で争点があるとしたら、男性の意思が介在することに関してで、以前松山で冷凍した精子を使って夫の死後に出産した事例(H17・9・4)があり強制認知の条文をつかって父子関係を争ったのですが、最高裁はその子と死んだ父親の父子関係を認めませんでした。その判決書きの中に「自然生殖による懐胎は夫の意思によるものと認められるところ、夫の意思にかかわらずその保存精子を用いた人工生殖により妻が懐胎し、出産した子のすべてが認知の対象となるとすると、夫の意思が全く介在することなく、夫と法律上の親子関係が生じる可能性のある子が出生することとなり、夫に予想外の重い責任を課すこととなって相当ではない」と述べていて、ああこれが最高裁の意見なのかと印象に残っていて、それを踏まえると奈良の事例は男性側の意志が介在していないなら父子関係を認めないのが妥当のはずです。奈良家裁の次の大阪高裁はこの点について「同意がないことについて子の身分の安定を保つ必要がなくなる理由にならず民法の規定が及ばない特段の事情とはいえない」とも書いてて、子の身分の安定と親の一方の意思の不存在について最高裁はどう判断するのだろうと注視していました。

でもって7日付で最高裁奈良家裁と大阪高裁の判断を覆さず、父子関係が否定されることはありませんでした。なお一方の意思が必要かどうかは触れてません。つまることろ「(体外受精に関して一方の)同意がないことについて子の身分の安定を保つ必要がなくなる理由にならず民法の規定が及ばない特段の事情とはいえない」ことが確定する、父となるものの同意がなく体外受精をおこなっても父子関係は成立する、ということになります。いままでの最高裁の親子関係に関する考え方を踏まえると、理解できなくもないのですが。

でもなんですが。

家族法分野では恋愛を含めて人は合理的・打算的に人間が行動するとは限らないことを前提に条文が組まれています。なので合理的・打算的意思形成が必要な行為能力を必要とせず、意思能力があればその意思を尊重すること前提にしています。結果として本人の意思の不在によって父子関係ができることに関してはうっすらとした違和感があります…って私の見解はどうでもいいのですが。

未知(の酒)との遭遇

たまに銀行から留守電が入ってることがあります。平日の昼間に家に居る高等遊民だと思われてるようなのですが、残念ながらそんなことはありません。どってことない一介の(勤務先は4階の)どこにでもいる平凡な目立たぬ会社員です。

ずいぶん昔に広島に仕事ではじめて行ったときどこかを観て帰るような余裕はいっさいなかったのですが、帰り際になんの気なしに「もし酒を買って帰るとするとなにが良いですか」ということを尋ねたことがあって、そのときに薦められたのが西条鶴という酒です。辛口だけど私には呑みやすくぐいぐいイケる酒で、次の機会に感想と教えてもらったことのお礼を述べたのですが(西条が灘や伏見に並ぶ酒どころであるのを後日知った)、以降、仕事でも仕事以外でもなんらかの機会に東京を脱出したら、時間に余裕があったらその土地で愛飲されてる酒を買うようになりました。買うといってもカバンの中にこっそり入れることができる程度のささやかなものです。開けるまではどんな酒なんだろうという想像するささやかな楽しみがあります。

はてなのお題を引っ張ると、家呑みは知らない酒を用意することで未知(の酒)との遭遇が可能で、ちょっとだけ冒険ができます。

 

静岡はメジャな酒どころではありません。が、侮れないところであると思っています。静岡のしずてつストアにあった安倍街道という本醸造酒で、週末にあけるつもりです。

「青春ブタ野郎はおるすばん妹の夢を見ない」を読んで

本作は春先までMXでやっていた(いまはTVKでやっている)「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」の原作のひとつです。

ネタバレをお許しください。青ブタシリーズの主人公の梓川咲太には梓川かえでという妹が居ます。その主人公の妹の梓川かえでが本作の主人公です。過去にメッセージを既読スルーしたことでSNSなどで罵詈雑言を浴びせられ、(詳細は本作をお読みいただくとして)結果として身体中が痣や傷だらけになる症状に罹ります。兄である咲太はいまは助けてあげることが出来なかったことを悔やみつつ起きたことのすべてを結果的に受容して症状が落ち着いている妹のかえでの面倒を見ながら生活しています。かえでは極度の人見知りでいわゆる「ひきこもり」で家から一歩も出ずつねに一日中にパンダのパジャマを着用して留守番する毎日でした。しかし兄咲太に恋人ができたことから独り立ちの必要を痛感しはじめます。そのかえでの独り立ちへの挑戦とかえでの過去とそばにいるお兄ちゃんの孤独と不安という、兄と妹の苦闘の物語です。詳細は本作をお読みいただくとして、苦闘の物語を直視するのはけっこうしんどいですが週末に行った通院先の待ち時間と調剤薬局の待ち時間と待ち合わせの場所へ行く浅草線の車中がしんどい分だけ豊穣な時間と相成りました。でもって物理の話はほぼ出てきません。ただ読むほうが傍観者でいることを許しません。たとえばイヤなことから逃げ出す恐怖について述べたところでは

試験前に勉強をサボってるときに感じる、あの独特のそわそわした感覚。勉強しないのは楽だけど、遊んでいても楽しいわけではない(p154)

というように読んでるこちらの首筋をも刃物でそっと優しくなでるような文章は健在です。

かえでは独り立ちのために克服したい小さな目標をたてつつそれをクリアしてゆく決意をします。ひとつが電話に出ることです。極度の人見知りで兄以外からの他人から電話をとることができなかったものの、兄梓川咲太の恋人の桜島麻衣の善意の協力で桜島麻衣からの電話で練習をしてクリアします。が、いちばん最初はストレス負荷がかかったのかダウンします。そのことを受けて・想定外のことが起きてしまったので「理解するって難しいわね」と桜島先輩がつぶやくのですが、電話を容易につかいこなせる桜島麻衣の視点からあらためて述べることで電話に出る≒他人と声だけで意思疎通するというあたりまえのように誰もができるはずのことに苦闘する他人(かえで)の姿に改めて気が付き、読んでるこちらも同質性の無い他人を理解すること難しさや意思疎通することの厄介さに気が付いてを改めて思い知ることになります。話がズレちまうんすけどどってことないことかもしれませんが、事象を羅列するだけでなく、その意味について読んでるこちらに再考を求める引っ掛かりを作ったところにちょっと唸っちまいました。話をもとに戻すと電話に限らず、登場人物が挑戦しようとするかえでにそっと寄り添って一緒に乗り越えようとするところがとても好ましかったです。

もうひとつ書くと、記憶ということに関して考えさせられています。作中でかえでに過去の記憶がないことに触れられています。そして忘れていた過去の記憶がよみがえりはじめて「過去の記憶がないかえで」として残された時間は少ないと悟ったかえでは(いずれいまのおのれの人格が消えてなくなるとしても)兄に笑顔になれる記憶を一杯残したいと考えて行動していたことが明かされます(アニメ放映時にはこのくだりで涙目になったのだけどそれはともかく)。人はなんで生きてるんだろうという根本的疑問を考えないまま40年以上を過ごしてきましたしその答えなんて知ったことではありませんが、一緒に居た記憶を残すということの重要性をなんだか思い知らされた気がしました。

ライトノベルズがどういうものかは相変わらずわかりませんが、本作は万人受けするわけではない、けっこう苦い物語です。でも出会えてよかった本です。

くだらないことをひとつだけ。作中、ブリ大根を作るシーンがあります。咲太はブリを煮すぎてパサパサにしてしまったらしいのですが、桜島麻衣の作ったものはかえでによって「ブリがブリッとしている」という評価が下されています。ブリっとしているっていう表現は謎なのですがポジティブ評価であることはなんとなくわかります。でもどうやって「ブリっと」仕上げたかは記述がありません。素人考えでは大根とブリを別々に煮たのかなあ、ということくらいしか思いつかず、そこらへんを書いて欲しかった気が。もっとも藤沢の隣の茅ヶ崎ではブリが釣れるので、相模湾の新鮮なブリをつかってブリ大根にしたのかもしれずそれがブリッとしているのにつながるのなら、

いいなあ、藤沢…という羨望が、魚に恵まれてるわけではない武蔵野台地の上の民としては読んでてありました。

[追記]

わたしははてなブックマークをやってないのと今後もやる気がないので、こういうかたちで返信させてください。

できない気持ちはできる人にはわからない、とも書いてあって、他人と電話で会話できる人間は他人と電話で会話することができない人の他人と電話をすることの難しさについて簡単には理解できないのかも、と個人的には考えています(他人と電話することに限らずおそらく外出できないひきこもりもそうなのかもしれませんが)。それが正解かどうかは別として物語としての解決策は理解できないけどより良い方向を目指して根気よく寄り添う、というスタイルでした。

最後にくだらないことをひとつだけ。以前「ライ麦畑でつかまえて」を他人に薦められて読もうとして挫折した経験があり、以降、他人が良いと思うものをそのまま受容できない変なところがある自覚があり、なのでおのれの読むものを他人にも薦めることに自信がありません。この本をすすめることに躊躇があります。

あと、レジへ持って行くときにちょっとだけ恥ずかしさがあったことを申し添えておきます。

アテのこと2

最初に暗い話をします。母は乳がんで死んでいるのですが、母方の祖母は胃がんで死んでいます。死んだ母の姉の一人が病死する前後、母方の祖母は日本酒をコップに注ぎ台所でよくあおっていたらしく、それががんの遠い要因のひとつではないかと母はよく口にしていました。医学的根拠はまったくわからぬもののそのことをずっと聞いて育ったので母の前では酒は呑みませんでしたし、母方だけでなく父方もがんの家系で念のため酒をコップに注いであおるようなこと・アテなしに酒を呑むことははなるべく避けてます。目の前にアテを用意しとけば酒ばかり飲まないだろうと考え(それじゃタカがしれてるけど)カントリーマーム1枚やたくあん1枚でもいいので口にしています。(もちろん乾きもので済ますこともありますが)可能なら酒のアテに関して湯気の出るものを作って試行錯誤してるのは何割かは酒ばかり呑むことによるうっすらとしたがんの恐怖の裏返しです。だったら酒をやめればいいのですが、音楽と恋と酒がなかったら人生つまらなくなりませんかね、って話がズレた。

アテの話を続けます。

火をつかいますがよくやるのが(以前から読んでくださってる人からすればお馴染みの)カリーヴルストです。ホットドッグに使うような長めのソーセージを用意して(小さなソーセージをぶつ切りにしてもオッケイですが)フライパンにいれて油を敷かずに水を50㏄ほど入れ加熱します。別途ケチャップとカレー粉にオイスターソース(この比率はほんとお好みで)を混ぜたものを用意しておき、火が通ったソーセージを皿に移したあと、ケチャップとカレー粉とオイスターソースを混ぜたものをかけるだけです。即できますし、簡単ですし、酒のアテじゃなくてももう一品というときにも便利です。オイスターソースじゃなくてオレンジジュースでも良いです。ベルリンの名物料理なのですが、残念ながらベルリンに行ったことは無いので本場のレシピは残念ながら知りません。でもオイスターソースを加えてもオレンジジュースを加えてもどっちもけっこうイケます。特にビールにはあいます。

火をつかうのがめんどくさいとき、やるのがたくあんのチーズかけです。たくあんを角切りにして皿に放り込み、そこにとろけるスライスチーズをかぶせて電子レンジでチーズが溶けるまで30秒くらい加熱してください。わたしはパプリカを掛けるのですが、なくても大丈夫です。たくあんは不思議なもので加熱すると旨味がでてきます。量は加減できますからひとりで酒のむときなどにはもってこいです。

そんなしちめんどくせーことしてらんねーよ、という場合、中濃ソースとポッカレモンとマスタードの出番です。以前毎日新聞でやっていた西原理恵子さんと枝元ほなみさんの連載の受け売りなのですが、中濃ソースにレモン汁を加えてマスタードを混ぜ、それを惣菜のコロッケや冷凍のチキンナゲットを加熱したものに添えると大人の味のアテになります。

他にもネギのぬたとか小ジャガイモのみそ炒めとかアテになりそうなもののレパートリーは無駄に増やしてしまっていますが、アテを考えることでその日抱えていた業務に関するあれこれをいったんストップできるので、なんだろ、それほど後悔はしていません。

アテのこと1(簡単なタマネギのアテ)

私はそれほどお酒に強くはありません。おそらく何度か書いてるはずなのですが、二十年ちかく前、お酒を呑んでホテルへ行き一緒にふろに入らずに先に入って、全裸でシーツにくるまっているうちにそのまま寝ていしまい起きたらここはどこ状態で、全裸で隣にいた人に土下座したことがあります。寝顔を見てたら起こすのがしのびなかったので寝かせておいた、といわれるとぐうの音も出ませんでした。酒が人をダメにするわけではなくて酒はダメなおのれを露わにするだけです。以降、外で呑むときはほどほどにしておき、他人に迷惑をかけるようなでかいお酒の失敗はないです。ないはず。ないと思う。ないんじゃないかな。っていまいち自信がありませんがそれは横に置いておくとして(横に置いていいのか?)、はてな今週のお題が「家で飲む」なのですが酒豪ではないダメなやつがいちばん安全なのは家で呑むことです。

酒のアテは自作することもあります。わたしはいわゆる上級国民とかではないのでどこにでもある安い食材です。たとえばタマネギを春につかいました。参考になるかどうかわからないものの一番作りやすいのを書いておくと、皮つきのタマネギを六等分もしくは八等分するように切り込みを入れ(このとき完全に切っちゃダメ)、耐熱皿に入れタマネギにラップをかけ、電子レンジで5分から6分程度加熱したのち、皿を移してタマネギを広げて、アツアツのタマネギに黒コショウをかけ、醤油とバターを垂らすだけでもけっこうイケます。醤油ではなくて顆粒のコンソメ+バターでもよくて、その場合は皮をむいた切り込みを入れたタマネギを皿に載せその上にコンソメとバターを置いてラップをかけて加熱しました。以前ニッカのホームページでは加熱前にブラックニッカをかけることを推奨していて半信半疑だったのですがかけたら不思議と美味かったです。いずれにせよアツアツのタマネギとバターの相性はいいのですが、インスタ映えしないしワイルドなザッツ男の料理!みたいな感じになってしまうのが難点です。

家で呑むにあたって別にポテチとかイカフライなどの乾きものもよいのですが、冷たいビール・冷たいハイボールを前にすると、ワイルドな料理とか湯気の出るアツアツのものって正義だとおもいませんかね、そんなことないかもですが。

ストレスの海

午後遅く、左の鎖骨のあたりと左の上腕がなんとなくヒリヒリしだし、耐えられないことは無いので耐えていたのですが、退勤のタイミングでトイレの個室で確認したら案の定、蕁麻疹でした。以前やっちまったことがあって、でも去夏の段階で終息していたのですがまた復活してしまったみたいで。経験済みのことなのであわてずマツキヨへ行きアレグラを購入して徐々にかゆみと紅斑も収まってきました。そのうち皮膚科へ行くつもりです。皮膚科へいったところで「疲れをためないように」とか「ストレスをためないように」とか告げられて、それが簡単にできれば苦労しない・疲労はともかく目に見えるものではないのでストレスがたまってるかどうかわからないから難儀なわけで、と云いたくなるのをぐっとこらえて疲れてストレスをためそうになるのが関の山なのですけど。

ストレスついでにくだらないことを書きます。春風亭昇太師匠のネタにストレスの海というのがあります。(ほんとかどうかはともかくとして)笑うと体にいい、というのもストレスの海から知りました。詳細はともかく、オチもあらすじもほぼ頭の中に入ってるのにもかかわらずなんべん聴いてもつい笑っちまうのです。よくできたフィクションは過去や現実やストレスを忘れてそのフィクションの中で溺れることができるのかもしれません。生きてくうえでストレスはどうしようもないけど蕁麻疹が終息するまで、ストレスの海に(もしくはよくできたフィクションの沼に)何度か時間を作って溺れるつもりです。

「青春ブタ野郎はプチデビル後輩の夢を見ない」を読んで

上記の本は春先までMXでやっていた「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」の原作のひとつです。

物理学のはなしをちょっとだけすると、仮にある瞬間のこの世に存在するすべての物質の場所や速度を知ることが可能ならば物理の計算の数式に当てはめただけで未来の状況は導き出せるのではないか・未来は予測できるのではないか、ということを古典物理学の時代には考える人がいて、でもそんな膨大な計算は人間には現実的にほぼ不可能で(+1秒後の未来を計算するのに1秒以上かかってたら意味はない)、それが可能な人ではない存在をラプラスさんが考え出してます。ラプラスさんが考え出した存在なので「ラプラスの悪魔」とよばれています(この点、もちろん量子力学の発達により悪魔はいないと否定され、未来は決まっていない、ということになっています)。題名のプチデビルはラプラスの悪魔にひっかけてあります。物理がちんぷんかんぷんでも本作は楽しめます。読んでいただくとわかるのですが、高校生が理解できるレベルで説明が高校生によってなされています。

以下、いくらかのネタバレをお許しください。主人公かつプチデビルである古賀朋絵は本来は悪魔ではありません。むしろ作中の言葉を借りれば正義の女子高生です。福岡から藤沢に来て日が浅く、友達も少なく、空気を読んで周囲に必死に合わせます。(これがリアルだったら怖いと思うほどの)バイト先やデート先までついてくる相互監視的友情の下、夜遅くまで起きて友人と同じ話題に入れるように動画を視聴し、スカートがめくれててもスマホをつかって返信することを優先します。他人が求めることを察して誰かにあわせようとしちまいます。数少ない友人が一方的に好きな相手から告白されるという事態に至って、その数少ない友達に嫌われることを極度に恐れはじめます。受け入れがたい現実を前におのれの中の悪魔を呼び起こしておのれの納得する未来が来るまでずっと未来予測をすることで話が進みます。シリーズを通しての主人公である梓川咲太が結果として同じ日が連続するという形でそれになぜか巻き込まれます(なぜ巻き込まれるかは最後に謎解きがなされる)。

作品中、「トイレにひとりで行くのはイヤ」というセリフがあって、そのセリフや周囲にあわせる行動は傍からすると滑稽なのですけど、本人の口から「ひとりが恥ずかしい」「あいつ、ひとりとだって思われるのがイヤ」という説明がなされていました。いきなり変な話をすると、孤独そのものが怖いわけではなく輪の外に外れているおのれを他人に見られるのがイヤ、というのは十代の私にもあって身に覚えがあることで(私は輪の外に行くのを怖れて悪魔に関するニックネームを最初反発していたものの孤立が怖くて受容していたので)、微妙な共通項があったのでアニメ放映中は古賀さんはどうなっちまうんだろう、というのが気になっていました。もうひとつ書くと、主人公である梓川咲太はマネできないと感じた旨書いてあったのですが、古賀朋絵は摩擦や衝突をうまく回避し、波風が立たぬよう、問題が発生しないよう、空気を読んで振舞います。実は似たようなことを私もしています。つまるところ、古賀朋絵は空気を読むタイプです。私も空気を読むところがあります。アニメ放映時にはフィクションとわかりつつも古賀朋絵の行動にいくらか心をえぐられ、また古賀朋絵がどこか他人とは思えなかったところがあります。もっともどう言い訳しても40overのおっさんがテレビの前でアニメの女子高生にハラハラしてた図というのは滑稽なのですが。

詳細は原作をお読みいただくかアニメをご覧いただくとして、同じ日が続く事象が作中2回起きます。つまり古賀朋絵にとって本心では好ましくない状態から一度は脱出するのですが、本心は違うけど他人が求めることを察して他人にあわせようとしちまい、おのれの中の悪魔をまた呼び起こしちまいます。しかし梓川咲太の教唆と自らの選択で「誰かにあわせようとする」ことにピリオドを打ち、すべてはふりだしに戻り、古賀朋絵は孤独をそれほど怖れなくなります(なので40overのおっさんはほんとホッとした)。おそらく「青ブタ」全体に流れることなのですが、周囲がフォローしながら登場人物が自ら選択をし、乗り越えてゆくところがとても好感が持てました。またSFの定義というのは正直知りませんがSFになってると思いつつもSFと言い切る自信はありません。でもSFっぽい設定を活かして本作は空気を読むことを良しとする文化の怖さと人の内面の孤独を浮かび上がらせて提示してて、かなり読みごたえがありました。

以下くだらないことをひとつだけ。おそらく「青ブタ」全体に共通することだと思うのですが、セリフが多く、比較的地の文は少なめです。福岡出身の主人公ですからセリフに「いっちょんわからん」(ちっともわからん)とか「しけとー」(つまんない)などの福岡(たぶん博多)の言葉がちょくちょく挟まっていました。標準語の文章の中に突っ込まれると不思議と柔らかい印象で甲州弁だったらこうはいかないよなあ羨ましいなとか考えつつ、方言萌えというのがいまさらながらちょっとだけ理解できた気が。