「青春ブタ野郎はプチデビル後輩の夢を見ない」を読んで

上記の本は春先までMXでやっていた「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」の原作のひとつです。

物理学のはなしをちょっとだけすると、仮にある瞬間のこの世に存在するすべての物質の場所や速度を知ることが可能ならば物理の計算の数式に当てはめただけで未来の状況は導き出せるのではないか・未来は予測できるのではないか、ということを古典物理学の時代には考える人がいて、でもそんな膨大な計算は人間には現実的にほぼ不可能で(+1秒後の未来を計算するのに1秒以上かかってたら意味はない)、それが可能な人ではない存在をラプラスさんが考え出してます。ラプラスさんが考え出した存在なので「ラプラスの悪魔」とよばれています(この点、もちろん量子力学の発達により悪魔はいないと否定され、未来は決まっていない、ということになっています)。題名のプチデビルはラプラスの悪魔にひっかけてあります。物理がちんぷんかんぷんでも本作は楽しめます。読んでいただくとわかるのですが、高校生が理解できるレベルで説明が高校生によってなされています。

以下、いくらかのネタバレをお許しください。主人公かつプチデビルである古賀朋絵は本来は悪魔ではありません。むしろ作中の言葉を借りれば正義の女子高生です。福岡から藤沢に来て日が浅く、友達も少なく、空気を読んで周囲に必死に合わせます。(これがリアルだったら怖いと思うほどの)バイト先やデート先までついてくる相互監視的友情の下、夜遅くまで起きて友人と同じ話題に入れるように動画を視聴し、スカートがめくれててもスマホをつかって返信することを優先します。他人が求めることを察して誰かにあわせようとしちまいます。数少ない友人が一方的に好きな相手から告白されるという事態に至って、その数少ない友達に嫌われることを極度に恐れはじめます。受け入れがたい現実を前におのれの中の悪魔を呼び起こしておのれの納得する未来が来るまでずっと未来予測をすることで話が進みます。シリーズを通しての主人公である梓川咲太が結果として同じ日が連続するという形でそれになぜか巻き込まれます(なぜ巻き込まれるかは最後に謎解きがなされる)。

作品中、「トイレにひとりで行くのはイヤ」というセリフがあって、そのセリフや周囲にあわせる行動は傍からすると滑稽なのですけど、本人の口から「ひとりが恥ずかしい」「あいつ、ひとりとだって思われるのがイヤ」という説明がなされていました。いきなり変な話をすると、孤独そのものが怖いわけではなく輪の外に外れているおのれを他人に見られるのがイヤ、というのは十代の私にもあって身に覚えがあることで(私は輪の外に行くのを怖れて悪魔に関するニックネームを最初反発していたものの孤立が怖くて受容していたので)、微妙な共通項があったのでアニメ放映中は古賀さんはどうなっちまうんだろう、というのが気になっていました。もうひとつ書くと、主人公である梓川咲太はマネできないと感じた旨書いてあったのですが、古賀朋絵は摩擦や衝突をうまく回避し、波風が立たぬよう、問題が発生しないよう、空気を読んで振舞います。実は似たようなことを私もしています。つまるところ、古賀朋絵は空気を読むタイプです。私も空気を読むところがあります。アニメ放映時にはフィクションとわかりつつも古賀朋絵の行動にいくらか心をえぐられ、また古賀朋絵がどこか他人とは思えなかったところがあります。もっともどう言い訳しても40overのおっさんがテレビの前でアニメの女子高生にハラハラしてた図というのは滑稽なのですが。

詳細は原作をお読みいただくかアニメをご覧いただくとして、同じ日が続く事象が作中2回起きます。つまり古賀朋絵にとって本心では好ましくない状態から一度は脱出するのですが、本心は違うけど他人が求めることを察して他人にあわせようとしちまい、おのれの中の悪魔をまた呼び起こしちまいます。しかし梓川咲太の教唆と自らの選択で「誰かにあわせようとする」ことにピリオドを打ち、すべてはふりだしに戻り、古賀朋絵は孤独をそれほど怖れなくなります(なので40overのおっさんはほんとホッとした)。おそらく「青ブタ」全体に流れることなのですが、周囲がフォローしながら登場人物が自ら選択をし、乗り越えてゆくところがとても好感が持てました。またSFの定義というのは正直知りませんがSFになってると思いつつもSFと言い切る自信はありません。でもSFっぽい設定を活かして本作は空気を読むことを良しとする文化の怖さと人の内面の孤独を浮かび上がらせて提示してて、かなり読みごたえがありました。

以下くだらないことをひとつだけ。おそらく「青ブタ」全体に共通することだと思うのですが、セリフが多く、比較的地の文は少なめです。福岡出身の主人公ですからセリフに「いっちょんわからん」(ちっともわからん)とか「しけとー」(つまんない)などの福岡(たぶん博多)の言葉がちょくちょく挟まっていました。標準語の文章の中に突っ込まれると不思議と柔らかい印象で甲州弁だったらこうはいかないよなあ羨ましいなとか考えつつ、方言萌えというのがいまさらながらちょっとだけ理解できた気が。