いちばん最初のコンパクトデジカメは関与した建物の経過を撮るために自費で買いました。頑丈そうなゴツいCanon IXY DIGITAL30を買っています。それを11年くらいつかっていたのですが、奈良へ行った際に春日大社でバランスを崩して転び、そのときに落としてジ・エンドとなりました。2台目はIXY DIGITAL700で、2014年に貰っています。貰いものゆえに比較的大事に使っていたのですがで今春で既に製造後13年以上経過しててここでレンズが引っ込まなくなってしまってます。修理対応期間を過ぎていたので新しいのを買うつもりでいて、2台目をくれた相手にいままでの謝意を含めて経緯を伝えたら、無駄遣いするな、よかったらいま使ってるデジカメをやる、と云いだしました。無駄遣いするなという理屈は正しいし、そこでその好意を黙って貰っておけば良かったのかもしれません。しかしこちらも少しは無駄遣いが許される程度の収入はあってコンパクトデジカメくらい買えるし対等でいたいといういくらかのプライドもあって断り、口が上手ではありませんから電話でのやりとりで、いくらか機嫌を悪くさせちまってます。翌日には機嫌を悪くさせちまったことを見事に忘れてメシの相談のため電話をかけてるのでおれは鳥頭です。鳥頭なりにあとで冷静になって考えてみると相手の手の上でわざと踊らされる余裕が私にはないのだなあ、と思い至ったのですがあとのまつりです。余裕のない男ってイヤですね、ってそれはともかく。

買ったのはIXY200で、まだ完全につかいこなせてませんがちょっとずつ慣れてゆくつもりです。でもって東京は

桜のほかに桃(キクモモ)も咲きはじめました。

悪い評判をたてられたときのこと

民事訴訟法というのがあって、ものすごく大雑把なことを書くとおのれに有利な事実については立証する責任があり、それが出来なければ負けることがあります。

じゃあ書面や証拠を読んでて互角で、債権者債務者どちらかを勝たせたいと迷うとき、裁判官はなにによって判断するのか、というと(法学部に入って法曹に行かずにあほうがく部卒を自称してるので)正直、わかりません。でもおそらく「勝たせたい」と思ったほうなんだろうな、という推測をしています。「勝たせたい」と思わせるにはなにが必要か、といったらもうこれは民訴の世界とは別に話になってきます。

民事訴訟法から横にズレて、悪評をたてられた時、やれることとしたら「そんなことはない」という証明をしなければならなかったりします。以前、異性を結果として門前払いしてしまったとき金銭について事実でないことを噂としてたてられ(Excelで桁区切りを稀に忘れることがあっても金銭管理はガラス張り対応であることを周囲は知っていたので半信半疑で)その噂を私はほぼ知らずにいて、しばらくしてこういう噂があんねんけど?と問われ、つい吹き出してしまって「叩いてもほこりも出ないですよ」と告げて調査には協力したうえで煙も火も出なかったのですが、悪評をたてられたとしても事実でなければ消えちまうのだな、という体験をしています。でもこれは個人的体験に過ぎません。

悪評をたてられたとして、民事訴訟の世界でなければ裁判官が裁判するわけじゃないので、それを聞いたほうは印象が左右しちまって、事実でなくても誤信してしまうことがあったりします。事実無根であることが証明しにくい場合、たとえば小さいらしいという噂をたてられて事実巨根です、という証明をするわけにもいかないような場合、否定すればするほど悪評を気にしてるムキになってるという印象を与えてかなり厄介な事態になります。でもって悪評を信じるかどうかは悪評を立てられた相手を「勝たせたい」と思えば信じなくて、「勝たせたくない」と思えば信じてしまうんだろうな、と推測しています。「勝たせたい」と思わせるものの正体ってなにかといったらむずかしいのですが。

悪い評判をたてられた者の説明責任、という語句を読んで思考が謎発展してるのですけど、悪評をたてられた時の最大の反撃は、ダメージを与えたいという悪評を立てた攻撃側の目的を粉砕することになりますから、もしかしたら悪い評判をいっさい気にせず「優雅に生活する」とか「いつもと同じ日を送る」なのではないか、と解を出しています。悪評をきいた人が「勝たせたい」のは、悪評が事実ではないことを証明することに熱心な人ではなくて「いつもと同じ日を送るのを粉砕されそうな側」なのではないかな、と。もちろん正しいかどうかはわかりませんが。

執行猶予

江戸時代に羽村にある多摩川の取水口から四谷まで玉川カルテットが…じゃねえ玉川兄弟が上水道を敷設していて、いまでも玉川上水という名で残っています。玉川上水端にはヤマザクラが植えてあり、そのそばに住んでいるので通勤のため平日はほぼ毎日玉川上水べりを歩くので

なのでほぼ毎晩夜桜見物してるようなものであったりします。あたりまえのこととして桜は散ります。花びらはけっこうな量なので、散ったら早起きして掃除をしなければならず厄介なものの

まだ散っていないので執行猶予中です。はてな今週のお題「桜」なんすが、今年は散らずにけっこうしぶといです。

現場からは以上です。

「青ブタ」ロス

シュレディンガーの猫という語句がリモコンでカチャカチャかえていたテレビのアニメから聞こえてきて、気になったのでごめんチャンネルを変えないでちょっと見せて欲しい、という趣旨のことを言って頼み込んでそのアニメをみてしまったことを1月くらいに書いた記憶があります。藤沢を舞台にした「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」という東京MXテレビでやっていた(春からはご当地tvkで凱旋放映する)アニメで、1話は見逃したものの録画したりしながら最終回まで飽きずに視聴しました。面白かったです。で、済ませても良いのですが、それで終わらすのがもったいないので書きます。

いくらかネタバレ的なことを書きます。設定は簡単に書けばひきこもりの妹を抱えた男子高校生が主人公でその日常をベースにしたラブコメディもあるSFチックな物語です。何度も同じ日付が連続するという回があり、その回の根底にあるのはラプラスの悪魔という古典的な物理学の概念で、その概念の話を外れることなくストーリーが進みました。その回に限らずいくつかの回の根底にあるのは量子もつれであるとか量子テレポテーションであるとか量子力学を含む物理に関する概念や現象などで、一見不思議そうな現象にも必ず理屈がくっついてて、それらが明かされるのはそれぞれの話の途中やラストで、視聴しているこちらとしては話の展開を追うと同時に根底にあるものを予測する、という楽しみがありました(ただ理系の人間ではないので回によっては概念や現象が見当つかなかったりしたこともあったことを告白します)。そして、起きてしまった事態の解決に関して登場人物たちが自らを変えたり、自力で考え自力で動いて自力でなんとかしようとするところが(言葉として適当かどうかはわかりませんが)環境や人に可塑性があると思ってる私にはとても好ましく、印象深かったです。特にひきこもり気味であった主人公の妹がこのままではいけないと自らを変えようとして行動を起こす顛末はついうるっときちまってます(40overのおっさんが深夜にテレビの前で涙目になってるのをご想像ください)。

一般的でないかもしれぬことを書くと、作品に不意にえぐられています。たとえば登場人物が抱えている孤立や居場所を失う恐怖があり、そうなることを過度に怖れて奇異なまでに周囲に合わせようとするシーンがありました。でもって高校の頃の話をちょっとだけ書くと私は本名でなくて蔑称ではないもののあるニックネームで呼ばれ続けていて、最初抵抗してたものの「そもそも嫌われてたらニックネームで呼ばれてないだろ?」と真顔で諭されからは内心少しイヤだなあと思いつつも仲間外れにされるよりは良いかと考えてごまかして・受忍していて、つまり(積極的に孤立を呼ぶことはしなかったけど)根っこでは居場所を失うことを怖れて・孤立を怖れてておのれも登場人物とさして変わらない、と気づかされ、奇異というおのれの感想がブーメランのようにおのれに返ってきてこめかみに触れるか触れぬかの状態でナイフでスッと切られた気分になっていました。って、てめえのことはともかく、その回において登場人物が自らを変えて孤立を怖れぬようになり自力で新しい世界を切り開いてゆくのですが、フィクションってわかっていても心底ほっとしてます。ほんとバカです。

また作品の中で、悪口を言われた経験とか身体のコンプレックスであるとかよくできた姉妹を持つものにしかわからないであろう劣等感であるとか、人によってはきわめて身近であるかもしれぬテーマも織り込まれていて、万人受けしないであろうものの単純な娯楽アニメではないところに唸らされちまってます。でもって続き物のアニメを毎週欠かさず見るという経験を三十年以上しておらず、最終回を観終わったあと「もう来週は無いのだな」と思うと若干さびしい気が。そしてああこの若干さびしい感覚がロスというやつか、と気がついた次第。新しい学習もしました。あと「バリむか」という博多弁も学習して使っています。

原作があるのを知ったので買おうかなと書店に寄ったのですが、なんだろ、題名が題名なのとライトノベルズなので表紙が若干アニメ絵でスーツでちょっとレジへ持って行くには勇気が必要で、まだ買えていません。でもそのうち覚悟を決めてレジへ持って行くつもりです。それくらい惹かれた作品であったり。

「電気羊かってなかった…」4

 ドレミの歌をご存じだろうか?知ってるよね、じゃあ、ドレミの歌以外のペギー葉山さんの曲を知ってる?うん、ダイジョウブ、私もほとんど知らない。でね、ドレミの歌以外で唯一知ってるのが「調子をそろえてクリック・クリック・クリック」という曲。元は外国の民謡で、クリックはマウスじゃなくてカチッとかそういうハサミの擬音です。なぜか小学校のときにこの曲が6年間給食の時間によく流れていた。私は機嫌がいいと耳にこびりついたこの歌をよく口ずさんでいることがある。先日もえっちなことのあとシャワーを浴びながらクリッククリッククリックって歌ってたよ?と指摘されたくらい。別にえっちなことをしたわけではないのだけど、難産だったレポートを提出できたのでワイン片手に、つい口ずさんでいた。

調子をそろえてクリッククリッククリック

ハサミの音もかろやかに

自慢のその手で鮮やかに

そらたっちまっち羊は丸はっだか、と。

次の瞬間、物音がした。

その方向を向くと電気羊があとずさりながら怯えた目でこちらをみている。しまった!と思ってもすでに遅い。いや、キミを丸裸にしようとしようなんて考えてないんだ、って釈明しても怯えた目は変らない。そもそもそういう趣味は…と言いかけてどんな趣味だよと言葉を飲んだ。なに言ってるんだおれ。ああ、電気羊の眼が軽蔑のまなざしに変わるのが手に取るようにわかる。どうしよう…

そこで目が覚めた。調子をそろえてクリッククリッククリックのメロディを奏でながらめざましが鳴っていた。電気羊飼ってなかった…

(訳詞は音羽たかしさんのものを参考にしています)

Click Go the Shears(邦題「調子をそろえてクリッククリッククリック」)の曲を知らないと意味不明になってしまう、「誰もが知っている言葉で書く」という原則に反するかもしれない小咄です。この小咄を書いたあとに布団の中で笑ったという反応を貰って、なんだか安堵した記憶があります。でもってベースにあるのは火の粉がかからぬ他人の危機はやはり笑いになるのではないか・危機と笑いは紙一重なのではないか、という疑問をかたちを変えて出しています。笑いってその底にいつも別のものが潜んでるのではないか、ってのが拭えないのですがって、話がズレた。

上の小咄に限らないことですが(実はまだ何個かある)、笑わすために書いたもので笑ってもらったり好意的な反応をはてなハイクで貰ったおかげで(さらにダイアリに載せて読んで反応をいただいたおかげで)、おのれの書いた言葉や文章も第三者に通じてるのかもしれぬなという確信をいまのところより深めています。

ご笑覧いただきありがとうございました。

「電気羊かってなかった…」3

天使のわけまえという言葉をご存じだろうか。ワインを熟成させるときにナラの樽に詰めるのだけど、時間の経過とともに樽の中のワインがナラの木目から蒸発して以前より目減りしてしまうことがある。その目減りした分を天使がこっそり呑んだことにして、天使のわけまえと称してる、んだけどでもこれって濡れ衣もいいところだよね。なんでそんなこと知ってるかって?この前デートで小樽のワイナリーへ行ったとき、にわか勉強したから。でね、理屈として酒が減るのが樽ならわかる。小樽で買ったワイン、もちろんガラスの瓶に入っているのだけど、昨日より確実に減ってる。まさか留守中に天使がはいってきて呑んだのか?なんて濡れ衣まがいのことを考えたところでふと机の向こうの電気羊と目があった。間髪置かずに目をそらされた。そして電気羊が、千鳥足で、逃げようとしている。

貴様か。

人間がワインを飲んでええ気持ちになってるのをみて、よしおれもとなったのか。くれ、と云われれば呑ませてよいかな、という気にはなるけどこっそり呑もうなんていい度胸しとるじゃねーか。とっつかまえて今日こそジンギスカン鍋にしてくれるわ。よし、ベル食品のタレを探そう、としたところで酔いが醒めた。

電気羊かってなかった…

野暮な解説を続けます。 歌舞伎の演目に身代座禅というのがあります。どういう話かの詳細は願わくば歌舞伎座などでご覧いただくとして、登場人物がうそをついた相手を怒る・うそをついた相手を成敗する場面があります。それが不思議と笑えてくるのです。その記憶を引っ張り出してもしかして怒りという心の動きは傍からみたら笑えるものなのだろうか、なんてことを考えながら(状況を写生することをこころがけて)書いてました。

書いたあと、おのれに火の粉のかからない他人の怒りというのは野次馬として安心して楽しめるのかもしれないな、などと気がついたのですが、つまるところこれを書いてるヤツは野次馬的なところがいくらかあったりします。書くということはおのれの知らぬどす黒い部分を再発見するいい機会でもあったり、って、おれがおのれをよく知らないだけかもしれぬのですけど。

「電気羊かってなかった…」2

「じゃあ、こんど楠田くん(仮)の家にあがらせてもらうね」

と今夜彼女は云った。もちろんまだ恋人ではない。あ、なんとなく話が合いそうで居て楽しいな、と気が付いたのでSNSのidも既に交換していて、今夜は居酒屋でザンギを前に、ザンギやから揚げににレモンをかけるか否かという些細なことから揚げ物談義ははじまり、先日から揚げを自作したけどカリッとしないでべちゃべちゃになってしまった、という話をしたらわりと具体的なアドバイスを貰った。謝意を述べながら「詳しいね?」と至極あたりさわりのないことをいったのだけど「揚げ物得意だから」というので「へええじゃあ今度コーチしてよ」とものの弾みで云ってしまったわけで。そこから冒頭の言葉のように(コーチとして)うちに来る、ということになった。会計のあと別れ際、酔っぱらってたので「コーチ、よろしくおねがいしまっす」とふざけて軽く挙手敬礼したら「ビシバシしごくよ」だって。ふふ、おれ、しごかれるみたい。でもちょっと嬉しいかな。もしかしてこれって久しぶりの新しい春の予感ってやつ?つか、冬が長かったな。なんとなく夜道を鼻歌うたいながら歩いて帰って玄関を開けて、電気をつけてみると、いつもの場所で横たわって微睡んでいる電気羊がいた。そうだった、うちには電気羊がいるんだった。

どうしよう。

正直は最善の策というから電気羊をちゃんと紹介すべきだろうか。つか、紹介したとしても電気羊を理解してくれるだろうか。猫なら「かわいー」っていってくれるかもしれないが、羊はどうだろう?かわいくもなければ愛嬌振りまくやつでもないし。つか羊飼いじゃないのに羊飼ってるって変な奴って思われないか?ああ違う違う、羊じゃねえ、こいつは電気羊だ。しかしなんで電気羊と暮らしてるの?っていわれたらどうしよう。あのコーチ、そこらへん鋭そうなんだよな。そう考えると電気羊をいまは見せないほうが良いか。そのうち紹介しよう。じゃあこんどコーチが来る間だけ名古屋の実家に預けるか…ってまてよ、うちの電気羊は誰にも教えてない。親に説明するのも面倒だしなあ。電気羊と同棲しとるってあんた何考えとるの、っていわれるのは目に見えている。やむを得ない、スマホを取り出して「OK Google、電気羊を預かってくれるところ教えて?」と頼んだら沈黙を貫きやがった。あとは人力検索はてな?あてになるかなあ。うーんどうすべきか。いっそ羊ケ丘に逃げようか…

そこで目が覚めた。真駒内で駅員に起こされた。電気羊かってなかった…

 

 引き続きはてなハイクの「電気羊飼ってなかった…」のスレで書いたやつです。1もご覧になった方は既にお気づきかと思いますがいわゆる夢オチです。つまんないことを書くとこの先も夢オチが続きます。「電気羊かってなかった…」というスレ自体がいつのまにかほぼ夢オチしばりであったはずで私もそれに乗っかっていました。名誉のために書いておくと(私は笑いを意識した小咄に仕立てましたが)幻想小説っぽく・童話っぽく・SFっぽく書いていたユーザーもいました。読んでみたい、はてなハイクって面白そう、と思った方がいらっしゃるかもしれません。が、残念ながら27日に消失してます。

こんなふうにあとがきを書くのはいくらか野暮です。しかし根がいくらか野暮なヤツなので続けます。私の手の内をさらすと、オチが決まっているのであとはどうやって膨らますかを考えていました。登場人物を天国から解決策のない悩ましい立場に追い込めてそれを夢オチでうやむやにする、という組立をし、あとは状況と心理を写生?しているつもりです。危機と喜劇は紙一重なのではないかとずっと思って試しに書いていたのですが、どうだろ。ご笑覧いただけたら幸いです。