箱の中の猫

こいつとち狂ったか、と思われそうなことを書きます。
シュレディンガーの猫」というのがあります。外からは中をうかがい知ることのできない箱の中に猫を入れて、箱の中に「核分裂をする原子」と「核分裂を検出する装置」と「検出器が動くと毒ガスを発生する装置」が入ってて、「核分裂をする原子」はある程度の時間経過後に核分裂をし→いつ分裂するかは箱の外からは観測できず→いつ分裂するかはわからないけれどでも分裂した時は毒ガスが発生して→猫が死ぬのは確実である、という設定の話です。その設定で箱の中の原子の状態はどのようになってるかというと、(肉眼では見ることのできない原子を扱う)量子力学とかだと「観測するまでわからないから分裂してない原子と分裂してる原子が混ざってる状態」という言い方をします。じゃあ猫は?「生きた猫と死んだ猫が混ざってる状態」ということになります。それはおかしいんじゃないの、っていうのは量子力学にまつわることなんすけど、先週末、遊びに行った(わりとカチャカチャ変える癖がある)相手の部屋で偶然映ってたMXのアニメにこの話がありました。アニメを滅多に見ないのですが・滅多にそういうことをしないのですが、「これはおもしろそう」という動物的な勘が働いて変えないよう頼みこんで視てました。
猫の話を続けると箱を開けて観察するという行為をもって猫の生死が決定するわけですが、もし生きていたとして再び箱のふたを閉じた次の瞬間にまた素早くふたを開けて観察し→さらにまたふたを閉じてまた素早くふたを開けて観察し、というのをずっと繰り返したらどうなるか、状況は変化せず猫は生きたままである可能性が高くなるのでは、という説(A watched pot never boilsっていう語句もある)があってこの週末の放送はほぼそれに沿ってて、主人公は被観察者の眠らずに観察を続けるのですが被観察者に薬を盛られて眠っちまい、ってなところまで話が続き、結末はネタバレになってしまうので書けませんが・話の展開に不満がないわけではないのですが、録画もしておいたのでしっかり視聴しちまってます。
[青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない]という男子高校生が主人公のアニメを、40overのおっさんが熱心に視聴するのはいささか幼稚でバカにされそうなのですが、でも、ちょっと引き込まれちまうところがある不思議な作品で、このまま最終話まで追うつもりです。おそらく小学生以来かも。

チームワークに関するいくらかめんどくさいこと

以前仕えたことのある上司は京都の言葉で「それ、ええようにやっておいて」と指示することがありました。「ええようにやっておいて」といわれても困るのですがなんとなく「こうしたらいいのかな」というのを空気を察して・考えて提示すると、だいたいそれが「ええようにやっておいて」の正解であったことが多かったです。もちろん失敗したときもあります。その場合はなにがどうダメかをきちんと教えてもらっています。異動でその上司の許から離れるのが決まり、報告したときには「あー、残念やな、あんたほんとに楽やったんだけどなあ」と人前で軽く嘆かれてここは軽く笑いをとるところかと察して「え、楽してはったんすか Σ(゚ロ゚;)」と怪しげな京都弁で驚いてボケてみせる程度には無骨な東男は進化していました。いまから思えば、空気を察する、というのは複数の人間で動くときには必須だと思ってるのですが、それをこの京都出身の上司に叩き込まれたところがあります。
人は工業製品ではありませんから均質ではありません。ゆえに複数の人が一緒に仕事をする場合にはどうしても問題が起きることがあります。あたりまえのこととして粗くわければ他人の動きにあわせることがうまい人とそうではない人、マイペースな人がいます。人ってなににイラつくかっていったら、仕事などで他人の速さと自分の速さってのがあわないときにイラつき、でもってストレスをためます。他人の速さにあわせることが誰でもできればいいのですが、そんな器用な人は多くはありません。複数の人間が協同して動くチームワークが必要な場合に、誰かが足を引っ張るような感じになると、ほかの人間がイラつき、そこでトラブルがおきやすくなります。ときとして経験不足の人が震源地のことが多いです。勤務先で以前、日頃から物言いがいくらかきっついのが新人になにかひとこと云ってしまい新人が涙目になってて、空気を察して相談をうけたことがあって、原因がなにか(そのときは経験不足から足を引っ張てたことを本人が自覚していた)、どうしたいのか、どうしたらいいと思うか等を誘導し、きつい物言いをした人に一緒に頭を下げに・事態修復にいったことがあります。自分のことではないので私が頭を下げる必要なんかないのですが、状況を放置すれば不貞腐れるに決まってます。限られた状況で多人数で動く場合は誰かが不貞腐れて任務を放棄する・意図的に能力をさげると、そのぶん誰かがカバーしなきゃならなくなって厄介で、できればそれは避けたいのです。きつい物言いをした人の話を聞くとまったく理解できない話でもなかったのですが、私も一緒に頭をさげることで相手に状況を察して事態を打開したいことは理解してもらえ、なんとか立て直すことができました。到達点が明確で、そこに到達したいと考えていたので私は頭下げるくらいは平気でできます(但し年相応の威厳はなくなる)。
以前テレビで、チームワークが必要な調理場を預かるたいめいけんのシェフが
「俺らの商売、不貞腐れたりしてもしょうがない」
って述べててホントそうだよなーと画面の前でつぶやいたことがあります。職種は違えどもシェフに深く同意するのですが、でも普遍性があるかどうかはわかりません。普遍性があるかどうかわからないれものの、はてな今週のお題がチームワークなんすけど、大事なのは理屈ではなく、空気を察して積極的にフォローして究極的には不貞腐れる人を出さないようにする、なのではないかといまのところ思っています。書けば簡単で、実行するのは難しくて、いくらかめんどくさい作業ではあるのですが。

稀勢の里関引退

慎重に準備していたものを実行に移してもときとして「失敗したらどうしよう」ということを考えてしまいかねないのですが、いま目に見えないものは考えても仕方ない、考えても仕方ないものは考えない、目の前に何らかの問題が起きたときに事前に準備しておいた解を含めそのときの最適解を探るしかないよな、とその場では割り切ります。目の前のことに集中します。メンタルが強くないのを自覚してるので・不安要素に引きずられる可能性があるのでそうしてて、推移を観察はしても成否は深く考えないことが多いです。それがよいことかどうかはわかりません。職務上、失敗したら批判の矢面に晒される可能性のあることもいままでありました。結果オーライが多く致命的な失敗はいまのところありません。
相撲中継をほぼリアルタイムで眺めてはいないし熱烈なファンでもないので好角家とは名乗れないのですが、比較的相撲は好きなので注目の取り組みなどがニュースでやっていれば食い入るように視聴してます。ここ数年、気になっていたのが稀勢の里(きせのん)です。白鵬の連勝を止めたのはきせのんではあるのですが、大関時代に大勝負というか優勝争いに絡みそうになるととたんに失速というか器用に動けなくなるのをみていて、最初はスタミナ不足なのかな、次いでメンタルが強くないのかな、と思うようになりました。メンタルが強くないのは私もそうで、なので途中から変に連帯感をもってしまってました。(左手を相手の右の懐に差して組み合った状態を左四つというのですがその)左四つになってからはわりと強いものの、器用な力士ではないのはうっすら見てとれたのできせのんの取り組みをテレビで見るたびになんだか毎回ハラハラしながら(なぜ強いはずの力士をハラハラしながら見なければならないのか謎ではあるのですが)目で追っていて、勝てばホッとし、負ければ次はがんばってくれ、と届きもしないエールを送ってました。横綱になったときはよかったなあと思いつつも、横綱になったあとも器用な力士でないゆえにハラハラしながら眺めていました。だから引退の報道を知ったとき、「もうハラハラしなくて済むのだ」とちょっとだけホッとしたところがあります。人非人かもしれません。
叶わぬことと知りながら、もし稀勢の里関に質問する機会がこの先あったならば、どうやってメンタルの弱さと対峙していたか、後学のために訊いてみたい気が。

青源味噌の餃子の達人

遊びに来た相手に買い置きの冷凍餃子をつかってなにか喰わせようとして、ずいぶん前に醤油と酢とごま油と砂糖で甘酢風のタレを作ったことがあります。一瞬「なんだこれは」という顔をされちまったので、ああよその家ではこういう食べ方をしないのか、と知ったのですが、おそらく餃子のタレは地域や家庭によって相当の差が出るのではないか、と踏んでいます。踏んでいるだけで残念ながら調査したことはありません。

宇都宮は餃子が名物なのですが、宇都宮で知ったのが餃子用の味噌だれです。餃子には醤油系のタレしか知らなかったので「なんだこれは」だったのですが、美味しかったのでタレを別売していたのでひとつ買って帰ってきてます。で、餃子にかけてもつまんないよなあと考えて、(原材料に梅酢と柚子が入ってるのでコクがありつつも酸味と柚子の香りもあるので)この週末に蒸し鶏にかけてみると、案外イケました。使い切ったらアマゾン童貞を捨てようかと考えていたのですが、幸いなことに押上のスカイツリータウンでの取り扱いがあることがわかったので、予備を購入してます。メーカー推奨のレシピのひとつに鱈のホイル包があったので、そのうちネギだくでやってみるつもりです。
なんだろ、未知の調味料を発見すると、なんだかわくわくしませんかねって、しないかもですが。

あんばようやってちょーよ

きっと前にも書いてるはずなんすが、名古屋勤務時に「ま、あんばようやってちょーよ」とちょっと上の人に言われて戸惑ったことがあります。あんばいよくやってな、という意味なのですがそのときは名古屋に来たばかりで完全な名古屋弁スピーカーではなかったのでなにを云ってるのかわからなかったのです。会話や文章というのは「話す」もしくは「書く」ほうと「聞く」もしくは「読むほう」がワンセットで、同じ言葉を理解してるとかの同質性がないとたまにほんとちんぷんかんぷんになりえます。
でもって厄介なことを書きます。

「東郷大将が大和魂を有っている。肴屋の銀さんも大和魂を有っている。詐偽師、山師、人殺しも大和魂を有っている」 「先生そこへ寒月も有っているとつけて下さい」「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」
吾輩は猫である 夏目漱石

吾輩は猫であるの中で大和魂について触れられているすごく印象的な部分なのですが、無かったらおかしいという同質性に担保された「大和魂が有っている」という最初に断定があると、その断定ゆえに説明が続かず説明になってないです。同質性があるとなんとなくわかった気になるのか、不思議とその説明が続かないことについて誰も疑問をさしはさみません。誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない、誰も聞いた事はあるが、誰も遇つた者がない、大和魂はそれ天狗の類か、と続く(というか喝破してる)のですが、どんなものかを誰も説明できなくても・説明がなくてもそんなふうに文章って続けることが出来ちまいます。余談ですが大和魂について云えばいまでも説明がなくても文章って書かれています。たとえばラグビーワールドカップのときに大和魂ってのをみかけてて・もちろん大和魂の説明もなく、それらを書いた人や肴屋の銀さんや寒月と同質性がない私は・大和魂はいまだに理解できていなかった私は、そこで躓いています。バカにされそうなことを書くといまでも大和魂を理解していません。幸いなことに大学受験でも入社試験でも問われたことはありません。そのうち愛国者試験なんてのができたら大和魂について答えられない私は真っ先に抹殺されるでしょうって、大和魂に関するてめえの無知と妄想は横に置いておくとして。
ある他人の文章をかなり前に継続して読んでた時期があります。最初はそんなことなかったのですが、そのうちじわじわっとなにを云ってるのか理解できなくなってきて躓きはじめて読むのがしんどくなって、読むのを止めてしまったことがあります。「猫」を読んで大和魂のくだりで言葉の説明がなくても人は文章を続けるということに改めて気がついて、書く方に読み手は同質性があると踏んだのか読んだ文章に結果的に説明があんまりないまま難解な言葉が置いてあり、また経験上、書く方と読むほうの同質性がないとちんぷんかんぷんになる、というのが理解できていましたから、そこらへんに躓いた理由を求めていました。しばらくして文章は別に他人にわかるように書かれなければいけないものではないけど、そこらへんのことを書いた本人が気にしなければ書かれてる内容を理解できない人間はそもそもアウトオブ眼中で≒愚者は相手にしないっていってるのと同じではないかと気が付きます。She never listens to them, She knows that they're the fools.完全に読むのを諦めてます。
愚者は経験に学ぶといいますが特段恨みもなんにもないけどその他人の文章を読むのを止めた経験から
「他人がわからないかもしれない言葉はなるべく使わない」
というルールをおのれに課しています。自分の頭で考えた言葉で他人にわかるように説明することをしなくなれば、どんどん言葉を知らない人を拒絶する蛸壺に入ってゆくだけと考えて、蛸壺にはいらぬように心がけています。また、誰が読むかわからない、というのもあります。こう書くと簡単ですが、すごく難しくて、貴様は同質性があるとは限らない他人に読みやすい文章を書けてるか、というと怪しいところがあります。しかし「ああいうふうな文章を書きたくない」という一心というか、反面教師がいたからその努力はつづけられてるところがあります…って、書いてておれ相当根暗です。オフ会にも出ないと決めるとカッコつける必要もありませんから、だれが読むんだよそんなものというのはありますが、暗い内面もあけすけに書けます。
最後にくだらないことを書きます。
私はいわゆるセクシャルマイノリティのくくりに入ります。でもゲイタウンとはほぼ無縁です。カミングアウトもしてませんから仮面をかぶって勤務先にいます。仮面をかぶらないときは2人で秘密を共有できればそれでもいいや、と思っていいてほぼ孤立していました。でも文章を書くようになったおかげで逢いはしないけどセクシャルマイノリティである人とのつながりが出来て、たとえばすることをしているときに最後の予告(よい子のみんなはわかんなくていいです)の必要の可否とか必ずしも高尚ではないけどいくらか重要な議題で知見を共有することがあったとき、他人がいる醍醐味を感じて、視界が・世界が広がった気がしました。その味をしめてセクシャルマイノリティであるかどうかを問わず、実際には逢わないけど考え方とかが手に取るようにわかる知り合いが幾人か出来てます。誰かの文章を読む、自ら文章を書く、書いた文章を誰かが読んでいる、というそれらの経験のおかげでより世界や視界が広まったと感じられ、また文章を書かなかった頃に比べておのれのレベルアップを自覚でき、言語化して表に出すことの重要性を感覚的に理解できるようになっています。もしかしたらそれらの経験や自覚や感覚的理解はすべて錯覚かもしれません。錯覚かもしれないけどその錯覚から覚めたくないところがあります。
経験から学ぶ愚者がつらつら書いてきたのですが、文章を書かなければ知らなかった得難い経験をしたと思っているものの個人的なことなのでおそらく普遍性はありません。なので、はてな今週のお題が「ブログ初心者に贈る言葉」なのですが、そんなものはありません。ただしいていえば快適なWebライフを送れるよう
「ま、あんばようやってちょーよ」
であったりします。
現場からは以上です。

明治屋のジューシーパイナップル

「お前はいままで食ったパンの枚数を覚えているのか?」というのをどこかで訊いたことがあって、しかし原典が何であるかは知りません。ただ1人でいることの多い平日の朝は(朝が苦手なのでほぼ毎朝世の中を恨みながら)パンを1枚焼いていて、なので少なくとも260枚は食べている計算になります。でもってほぼ塗るのはジャムです。たいていアヲハタのオレンジマーマレードなのですが、忙しかったりとか、いくらか食欲が落ちてるなと自覚できるときはジャムを浮気します。アヲハタジャムが不味いとか飽きたとかではありません。説明しにくいのですが食欲維持のためには無難な行動をしないのが自分の中では重要であったりします。
いくらか忙しくなっちまってて食欲が落ちてるなと自覚したのでいまは

明治屋のジューシーパイナップルに浮気してて、まだ2つ囲ってます。あたりまえのこととしてパイナップルの香りとちょっと酸味がしますが甘さ控えめで、酸いも甘いもパンの上に載せほどほどに味わって朝を過ごしています。
つか、ジャムでなんとかなっちまうので、食欲不振っていってもたいしたことないのですけど。

塩原へ

理屈ではないいくらかおかしなことをちょっと書きます。血を分けた兄弟ではないけど四十肩で1年以上まっすぐ肩が上がらない相手をみるとなんとなくおだやかではいられないところがあります。で、あたためるぶんには良いらしいのは知っていて、および疲労回復を兼ねて、温泉に行くことを相談して決めていて、宿がとれたのでこの土日で塩原の温泉に浸かっていました。

向田邦子さんの「あ・うん」という小説があります。主人公の夫婦の一人の娘が栃木の塩原に駆け落ちしようとするところがあって(それを夫婦と奥さんにひそかな思慕いだいてるもう一人の主人公である友人が追いかけて3人で塩原で一泊する夜の描写がある)それを読んで塩原の名前は知っていたので、以前からどんなところなのだろうと長いこと思っていました。実際に行ってみると山間の温泉で、いまは川べりに比較的でかい旅館が立ち並びます。泊ったところではありませんが写真の右は関東の人間なら知っているであろう「ホテルニュー塩〇」です。ちゃんと書くと古くからの温泉場らしい建物も残る一方、廃墟もありました。
この週末、積雪はほとんどないので雪見の温泉にはなりませんでしたが小雪舞う状況であたりまえのこととしてけっこう寒かったです。でもって同行者がうしろで帯を結ぶのがいくらか困難なので(私が結んでてできればその姿をなんとなく他人に見られたくなくて)貸切のできる風呂のある宿を選んでいました。風呂は加水はできるけど湯かき棒でよくかき混ぜることを推奨してて(おっさんが全裸でお湯をかき回すところをご想像ください)、かき混ぜたあとおそるおそる入るとそれでも比較的けっこう熱めのお湯で、でも慣れるとほんとなんとも思わなくなるというかいい湯だなと感じられ、外気が寒くてもあんがい気になりませんでした。長いこと雪見の温泉って寒くないのかな、と考えてたのですが、熱い風呂なら関係ないのだなということに気が付きました。謎が解けたというか、なんだろ、文字にすればどってことないことですが。
肩をあたため、効能の中に保湿美肌に良い、ってのもあったのでおそらくいくらか美肌になってから帰京したのですが途中で宇都宮に立ち寄ってて

カソリック松が峰教会を見学しています。宇都宮市で採石された

大谷石をつかった鉄筋コンクリート造石張りの教会で、

東側から入って西に祭壇が置かれています(くだらないことなのだけどニコライ堂が東向きなので最初ちょっとだけ違和感があった)。窓の上部などに半円アーチがあるいわゆるロマネスク様式です。内部は信仰の場だと思って撮影を自粛したのですが、やはり半円アーチを多用してています。内部は上半分白で、下半分は大谷石むき出しであったのですが南側の窓がすべて黄色系のガラスでまとめられていて、差し込む光が薄く黄味がかっててそれが視覚的に妙に印象的でした。最初にその光景を目にしたとき、しばらく動けなかったくらい。

餃子も食べてて、入った店の餃子の味噌だれで食べるもので、その味噌だれがコクがあってなおかつ酸味が利いてて美味で、餃子は醤油か甘酢ダレで食べていたほうからすると味噌だれで喰うこと自体が目からうろこでした(宇都宮餃子全体がそうではないようなのですが)。旅行で不意に見知らぬ味に出会えてちょっと嬉しかったです。