思い込み(後日ちょっとだけ修正)

思い込みのある人間だと数日前に書いた記憶がありますが、それは自分にとっていろんなことに当てはまります。盲目的にこうあるべきだ、ということをどこかに求めてます。シルバーシート付近ではケイタイを使ってはダメとか、巡礼中は肉や魚はダメとか、コンドームをつけていれてね?とか、です。しかし傍にだれもいないとか実害ないなら別にケイタイを使っても良い訳で、また巡礼中に魚や肉を食べても仏罰が下るとは限らず、また、例のウイルスに感染してなければコンドームの必要って無いわけです(ただし、悲しいかな恋人が誰と寝たか判らなくてその人まで感染の有無なんて調べられませんからしないよりしたほうが良いと思います)。



で、ずっとここでか弱くなんとなく主張している、知らない人とのセックスについてはあまり良くないかも、ということも私の思い込みである気がある程度します。不特定多数の人とセックスをしても問題ない可能性はあります。良きパートナーさえ巡り会えれば幸福なことでしょう(しつこいようですがこれはあなたの恋人が、100人と寝ててそれでもあなたを色眼鏡をかけずにそういうの関係なしに好きになってくれる可能性って無いわけではありませんということと同時にあなたの恋人が100人と寝ててもあなたは許せるか?って問題でもあります)。けど、そんな都合のいいパートナが来るのは簡単にはありえないでしょう。



他の人が簡単な方法で異性同性を引っ掛けてセックスして良い思いをしていたとしても、他人を羨ましいとおもうことが恥ずかしいことであるという思い込みが成されてたせいかもですが、そういう話をきいても途中まではあまり乗り気になりませんでした。ただ、興奮という麻薬を覚えちまうと話はべつです。その興奮の為に何でもしてしまいそうな自分がいます。普通のブラジャーは単純にフックで引っ掛かっているだけなのに意外ときつくしまっているものなのかちょっとだけてこずりながら外すことが出来て異性のカタチの良い乳房を見たときの興奮とか耳に舌を入れられながら脱がされてわき腹を指の腹で軽く刺激されるときの興奮とか忘れることはできません。また理性で抑えきれない非日常的な興奮や快感への誘惑はあります(媚薬とかSMとかに全く興味が無い訳ではないです)。興奮や陶酔感がほしくないといったら嘘になります。興奮や陶酔感があるゆえにさびしさやさみしさを紛らわすことが出来、それを知ってるのでどうしても人肌がほしくなってくるときがあります。


しかし繰り返しになるかもですがずるずるだらだらと好きなことだけしてイージーなことをして性的乱行をして、そこまで行ってから這い上がることが出来なくなるのが怖い。人を好きになるって、例えば好きな人の為に気に入ってもらおうといろんな試行錯誤するとおもいます。しんどい思いや千々乱れることがあるかもですがそういう過程が楽しいことのひとつであって、自分が願わくばと求めてるのはたぶんそういうことであって、セックスはないよりあったほうがいいけどそれは楽しみの一つであっても主たる目的でない。自分が欲してるものが手に入るなら寂しさを紛らわす陶酔感だけのセックスなんて必要はありません。恋人とのセックスは興奮を得たいからじゃないはずです。恋人とのセックスと、そうでない人とのセックスの違いをあえて探すとするならば、セックスして興奮や快感を求めることだけが唯一の目的であるか否かもあるとおもいます。
もっともセックスを思う存分やりまくれば人は寂しさとかが消えて満たされるのかといったら多分、満たされないきがします。これらもまた思い込みかもですが。



セックスそのものにこうあらねばならぬ、という幻想も有りました。アダルトビデオのみ過ぎかもですが、前戯は丹念にしたほうがいいとか、挿入は必須とかです。相手を悦ばしてナンボだと思っていた時期はパーフェクトを常に目指してました。考えてみたら確かにパーフェクトでなくともテストでないんですから構わないのですが、赤点を取らずに次につなげるとかの程度で構わないといえばそうなのです。それに気づかずに、外観上相手がほんとに満足した徴候が無さそうで上滑りというかなんというか赤点じゃなくても自分のなかでパーフェクトでないとおもったときに、異性に対して、異性が不満を洩らすことの恐怖があって、先手を制してごめんと謝ったこともあります。同性に対しても同じことがあって事前の調整というかなんというか、上手くいかなくてパーフェクトと思えなかったときにやはり先に謝ったことがあります。何で謝られるのか判らない、といって何度目かに理由を訊かれたこともあります。簡単です。下手で、捨てられるのが怖いからです。捨てられるのが怖いから、多少抵抗があったとしても異性や同性の性器に口をつけることは厭いませんでしたし、体が疼いてるのに途中でやめられるのがものすごく恐怖でした。本当は私が欲しかったのは快感や性器とかではありません。自分に執着してくれることとか、好いてくれる確証や、一緒にいてくれる時間とかです。相手をせめて今だけは引きとめる為に性器に執着するフリをしていたに過ぎません。
年下の寝たことのある、けど、恋人ではない関係の同性に、謝罪の理由やどこか恐怖を抱えたままセックスをしてることとか、今書いていたようなことを雑談として云ったことがあります。で、そのとき彼がいったのは、
「完璧より魅力的なことってあるはず」
というのと、
「価値が無いわけじゃないんだから安売りしないでもっと自分を大事にしたらどうか」
ということでした。たぶんそれも彼の思い込みかもしれません。大事にするほどの価値が自分にあるか今でもちょっと疑問に思うときがありますが、それでもなお、なんかその思い込みが正しいようなことのような気がしてなりません。



個人的にはこの二つの、ちょっと情緒的な、けど説得力のある言葉はいまでも心に残ってます。
完璧より魅力的なことはあるはず、というのはこれはそのとうりだと思うのです。多少完璧でなくてもよほどのことがない限りなんら問題はないでしょう。むしろ欠陥があるほうが親しみも持てるのかもしれません。不毛なセックスを通じて多少の技巧と演技も覚えました。ただ、フェラが上手いとかクンニが上手いといわれると凹みます。自分のしでかしたことでしょうがないことですが、その響きはどこかスキモノと云われてるような、侮蔑的であるような気がしてなりません。完璧を目指さないほうがいいかもです。
もうひとつの自分を大事に、というのは、セックスにはまりそうな人に対してあえて声を大にして云ったほうがいいかもですが、自分の価値基準で自分自身を判断するということを訓練しないとダメかもです。
正直に書くとセックスを求められること=魅力があると勘違いしていた部分が私にはありました。私は自分にたいしての自己評価が低いところがあって、同性でも異性でもセックスを求められるとで自分に価値があるのだとイタイ勘違いをしてしまってました。わざわざ誘ってくれてるんだ、マジ?いいの?みたいな。そこからいくらか不毛なセックスにはまりはじめ、名前を知らない相手に誘われるまま寝たことがあります。しかし相手はできればいい、みたいなところがほとんどかもしれません。
悦ばせようと思って何かをするとか、他の人に何かすることに慣れてしまうと自分のしたいことをなかなか言い出せなくなると思います。それが正しいか、といったら正しくないような気がしてなりません。自分だけ脱がされて裸の状態で、フェラをして欲しい、といわれたからファスナーを口で開けて、して、ご褒美にキス、というのは相手に支配されてるようなものであったりします。自分にあまり主体性が無いというのが相手に判ったら相手の思う壺でしょう。相手を御することが可能とわかればどんどんエスカレートしてしまう。便利な都合の良い存在扱い以上にはされなくなる可能性は排除したほうがいいとおもうのです。希望を聞くことのみや、セックスの上手い下手で評価されることは馬鹿らしいことじゃないかとおもいませんか。そら、上手いほうが楽しいかもですが、自分が捨てられるかもと、相手の評価をびくびくしながらすることは自分を安売りして他人に支配されることのはじまりだと思います。そういうセックスがほんとに自分の望んだものだったか?といったら、ノーでした。



私は自分がセックス依存症であったかどうかわかりませんが、その気はあったんじゃないかと思ってます。嫌な事とか寂しさを抜け出すためにセックスすることが悪いことかどうかは判りません。ただ、もし、自分がなんか不毛なセックスしてるかも、というような人がいたら、やはり、
「安売りに適さない自分を大事にしなければならない存在」
という思い込みをしてみる事を薦めます。見えてくるものがあるんじゃないかと思います。