モデルナ2回目の記録その1(もしくは体温計の話)

午前中にモデルナ2回目を接種してきました。午後は上品にいえば安静に、ありていにいえばダラダラしていました。

1回目の時は注射のあとすぐにホットフラッシュというかほてりのような症状が出たのですが今回はすぐには出てきていません。よっしゃラッキーと喜んでいたら9時間半を経過したあたりで前回と同じようにほてってきてて、念のため検温すると6度8分で、(35度台が多いので)個人的には高めですがそれでも平熱です。そろそろ10時間を経過しますが他には注射したあたりがひきつってる感覚と肩から上に腕を上げることが出来ない状態なのと、いつもよりいくらか眠いです。あとは事前に買い置きしたアクエリアスゼロを半日で1リットル半くらい飲んでます。案外喉が渇いていたのかも。このまま副作用がこの程度で終わってくれればよいのですが。

くだらないことを書きます。

アナフィラキシーがあるので30分待機組に入れられていて、その待機中看護師さんに前回の接種での副作用の有無について質問されました。身体のほてりがあったことを述べつつもしかし体温計で測ったら7度を一度も越えなかったことを付け加えたんすが、そのときさらに体温計のことを訊かれてます。おまえが拾ったのは金の体温計か銀の体温計か…じゃねえ、電子体温計か水銀体温計か、です。ずっと5分くらいかかる水銀体温計ユーザーでそれを述べたあとに念のためにその質問の意図を訊いたら、電子体温計の体温表示は予測値なので水銀のに比べていくらか高くズレることがある、とのことで。ひとつ腑に落ちることがあって、通院先は通院日7日前からの検温を義務ではないけどお願いされててずっと水銀体温計で検温してて、しかし病院の電子体温計で診察前に検温すると平熱でもいつも少し高めでいったいなぜなのだろう…と疑問だったのが氷解しています。知ったところでなんの役にも立たない知識なものの、理屈(のようなもの)が判るとなんだかスッキリしました。

前回接種時に30分時間をつぶすのに苦労したので今回は文庫本を持ち込んでいます。30分経過した時点で長居してもしょうがないので出ようとして、しかししおりを持ってこなかったので指しおりというか指を挟んでおいて、あとでそこから読み続けようとしていました。ところが最後にもう一回接種関係の書類のチェックがあって(ひと月前も経験してるのにそれを失念していた)、カバンから書類を出そうとした時点でやむを得ず指を本から抜いています。3回目があるのかどうかは知りませんが、仮に次回があったとしたらなんか悔しかったので文庫本のほかにしおりを持参する予定です。

シイタケの戻し汁

以前、干しシイタケを貰ったことがあります。その袋の外側に電子レンジで戻す方法が載っていて、皿にシイタケとシイタケと同じ分量くらいのぬるま湯にひとつまみの砂糖を加えてラップして2分半加熱、って書いてありました。なるほど、とその指示書きにしたがって電子レンジに入れ、加熱。ところが2分半してレンジを開けてみると、レンジ内にシイタケの出し汁が飛び散っていました。シイタケそのものはなんともなかったのですが、干しシイタケの戻し汁をつかう目論見は潰えてしまっています。「おれ何も悪いことしてないはずなのになんでこんな目に合わねばならぬのだろう?」と考えながらレンジ内の出し汁を拭きとってると、その動作を不審に思ったのか「どうした?」との声が。一連の説明をしたら鼻先で笑われたのですが、人のしっぱいというのは面白いのかも。

はてな今週のお題が「爆発」なのですが、レンジでシイタケの戻し汁だけ爆発させたことがあります。

それ以降、電子レンジで干しシイタケを戻すことはしていません。もういいおっさんなのですが、ちょっとビビりなところがあります。

横浜市長選が露わにしたもの

野球と政治の話は得意ではないのでしたくないのですが、今日はその禁を破って万人受けしない話をします。

横浜港というとよく知られてるのが客船ターミナルがあって客船が発着する大さん橋ふ頭で、しかし大さん橋ふ頭だけでは対応できなくなったので新港ふ頭にもハンマーヘッドという名称の客船ターミナルを2年前に作っています。もちろん横浜港は他にもふ頭はあって、ハンマーヘッドの真正面にも瑞穂ふ頭というのがあります。通称ノースピアといい在日米軍が利用していて、横田基地や相模原の補給廠などへの物資を陸揚げするために使われています。(ノースピアと対になるサウスピアは返還されててそれが大さん橋ふ頭なのですがそれはともかく)瑞穂ふ頭の代替のために作られたのが山下ふ頭です。長いこと物流拠点として機能していましたが(過去形で書いたのはいまは本牧ふ頭や南本牧のふ頭がメインになりつつあるせいで)、その山下ふ頭を再開発して大さん橋ふ頭やハンマーヘッドと同じく客船ターミナルを作る計画が市にはあります。再開発時にカジノを誘致する計画も前からあって(振興のために必要とする信念を持つ人と賭博施設ゆえにそれを認めぬ信条の人もいて)ここ数年市を二分するていどに議論があって、それが今夏の横浜市長選の争点の一つにもなっていました。横浜港にある会社の株を持っていて成り行きをずっと注視していたのですが、結果はご存じのとおりです。

カジノ誘致に前向きだった前市長は以前は横浜選出のいまの与党の総裁にも近いと思われていて前市長が続投してカジノができるのかな、と予想していたのですが、市長選では途中で閣僚だった与党系の候補がカジノ反対の意思表示をして出馬しました。与党の総裁は後者に肩入れしています。もちろん誰が出てもかまわないのですし誰を推そうと自由なのです。ですが、カジノ誘致に反対なら前市長を説得できるチャンスが、カジノ誘致賛成なら閣僚だった候補を説得するチャンスが、どちらもあったはずなのにもかかわらず失敗してしまってるわけで。

思うに自らの信念や信条にしたがって選挙民を言葉で説得誘導するのが政治家の役割のはずで(だから地盤もないにもかかわらずそれに長けた人物が選ばれることがあり得て首長選挙では東国原知事が誕生した過去があるのですが)、にもかかわらず近しい仲の人すら説得誘導できないのはなんの信念や信条もないか説得誘導する技術や言葉を持たないかのどちらかか、最悪その両方か、です。さきの横浜市長選は与党の総裁にそれらがないことを露にしちまってます。悲劇は与党の総裁が首相でもあることで、横浜市の仲間にすらなにかしらの信念や信条を披露して説得誘導してゆく技術や言葉が無いということは国民に対しても信念や信条を披露して説得誘導する技術や言葉を持たない可能性が高いわけで、事後諸葛亮的なことを書くと横浜市長選の前後から昨今のコロナ禍の状況を考えるとそれはまずいんじゃないの?と薄々気がついていたのですが。

事実上の辞意表明を知って特段感想はなくて、私は思想的に自分が右なのか左なのかよくわかっていなくて右派でも左派でもなく「こやつめ、ハハハ」派ですと笑いをとりたいくらいです…って冗談はともかく、できることなら何かの質問や指摘に対して「問題はないと考える」「ご指摘には当たらない」という、問いに対しての形式的な返答はするけど誰もがそれで納得する・説得誘導されるとは考えにくい不思議な言葉を使わずに、できれば国民をそれが出来ぬのならせめて仲間くらいは何かしらの信念や信条を持って説得誘導できる技術や言葉を持つ人がどの政党のトップであっても選ばれて欲しかったり。

名前を覚えて貰うことに関しての答えの無さそうな些細な疑問

今日も今日とてくだらないことを書きます。

古畑任三郎シリーズのなかで向島巡査という登場人物がいます。顔は覚えてもらってもしかしなかなか名前が覚えてもらえず、名前を覚えてもらったら本人の姓が変わってしまう、という悲劇(?)の持ち主です。向島という苗字がそれほど覚えにくいわけではないはずなものの人の記憶って謎が多いですからそういうこともあるよなあ…と変には思いませんでした。

個人的体験を述べると社会人になりたての頃に勤務先で顔は覚えて貰っても名前までおいつかなかったことがあって「あいつ、なんつったっけ、ほら、あの東京の八百屋みたいなやつ」とある先輩が周囲に訊いていたらしく、可笑しかった記憶として云わずにはいられないといった調子で「きみな、八百屋っぽいらしいで」と別の先輩から告げ口とも忠告ともとれぬことを聞かされたことがあります。それ以前もそのときもそしてそれ以降も挨拶はわりとしっかりしてるはずですが、いまでも何年かに一度の確率で、自己紹介後も顔はいっぺんで覚えて貰っても一発で名前まで覚えて貰えなかったり、名前の一部が改変されたり(≒名前がちゃんと認識されてない)ってことはあったりします。ついでに書くと私の苗字は向島でもヤオハンでもありません。野菜の名前もかすりもしません。

抱えてる仕事の都合で書類のやりとりをしていて今日受け取ったものについて宛先等は確実に私の苗字なのですが、メモ的なものとして書かれてるペーパーに記載されてる苗字が一部が改変されてました。故意ではなさそうだし忙しいのだろうなと推測できるので、またまったく些細なことなのでそれでへそを曲げたりはしませんが、さすがに返信にはその改変された苗字ではなくてちゃんとした(?)苗字を書くつもりです。なんだろ、伊藤とか佐藤とか田中とか鈴木とか姓がメジャーなものであったらこんなふうにはならないのかな…的なことはちょっと考えちまいました。

さらにくだらぬことを書くと前に読んでいたラノベで自己紹介するシーンで「梓川サービスエリアの梓川に」とあって、ああ地名と同じ場合はそれでいっぺんで覚えて貰えそうなアドバンテージがあるのだな、と腑に落ちたのですが、同じ地名もなく同じ名前の有名人も居ない決してメジャな名前ではない場合はどうやったら一発で記憶してもらえるのだろう?的なことも苗字を改変されたせいかちょっとだけ考えちまってます。ここらへん、答えなんかありそうにないのですが。

消去できないあの感覚

私は英語が得意ではありません。そんなのが大学に滑り込むと悲惨です。英語の授業でマクベスという名の知られた作品が取り上げられてて、これがすごい厄介でした。たとえば

To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,Creeps in this petty pace from day to day, To the last syllable of recorded time;And all our yesterdays have lighted fools The way to dusty death. Out, out, brief candle!

(Macbeth・5幕5場)

というマクベスが吐く有名なせりふがあります。To-morrowと書いてありますがtomorrowとかかずにTo-morrowって書いてあるのはなぜか?とか英語が得意ではないのでそこから躓いて考えちまいました。辞書ではmorrowでも明日なのにtoがついてるから「明日へ」なのかな…と、とりあえず訳してもいいのですが、英語は同じ言葉を何度も繰り返すのは避ける傾向がありますから明日へを三回続けるのはまずいよな、と考えて「明日、そしてその翌日、さらにその次の日へと」とかなんとかつたないとりあえずの訳を考えて書いておくとこんどはCreepsにぶつかります。うしろにpettyがあって些細なという意味もあるのでcreepはのろのろ進むとか忍び寄るとかでもいいのですが、気味が悪いという意味もあるので悩みます…ってここらへんは永遠に書けるのですが英語学習のブログではないので適当に切り上げることとして、悩みながら万事そんな調子で予習を進めてとりあえずの訳が出来たものの、原文は発音するとTo-morrow(↑), and(↓) to-morrow(↑), and to-morrow(↓),Creeps in this petty(↑) pace(↓) from day(↑) to day(↓)って舞台のセリフですから韻を踏んだり語尾に抑揚が効いていて美しいのですがおのれの日本語訳はちっともそんなふうにならず、ただでさえ時間を浪費してる上に何かをこぼれ落としてる気がしてならないのです。ああこんなのぜったいムリ!もう次回からはサボろう!申し訳ないけどこの英語の単位今年は諦めよう!と決意して辞書などをすべて閉じて、適当に本棚からマンガを取り出して読もうとしました。

でもなんですが。

妙にそわそわして落ち着かなくて、それが中途半端に投げ出したおのれを許せないことに起因することに気がつき、なので結局もう一度辞書を開いて格闘しはじめちまいまして、なんとか喰らいついて、結果としては単位を落とさずに済んでいます。

そんな紅顔の美青年の大学生が…じゃねえくたびれた勤労学生が40半ば過ぎのくたびれたおっさんになってなんの因果かラノベを読んでいたとき、

試験前に勉強をサボってるときに感じる、あの独特のそわそわした感覚。勉強しないのは楽だけど、遊んでいても楽しいわけではない

青春ブタ野郎はおるすばん妹の夢を見ない」(鴨志田一電撃文庫・2015・P154)

という、嫌なことから逃げることで生まれてしまう恐怖・目を背けてしまったことから膨らむ不安についての描写にぶちあたります。試験前の勉強ではなかったものの妙に腑に落ちていて・大学生時代のマクベスの予習の記憶が蘇って、でもってはてな今週のお題が「サボる」なのですがサボったときの感覚って不思議となかなか忘却の彼方へ追いやることが出来ないものなのだなあ、と。

さて、大学生の頃の経験からサボることをしなくなったのなら美談になるのですがまったくそんなことはありません。勤務先関係はサボるわけにはいきませんが、それ以外ではサボらないために手を出さないことの方が多いです。たとえば意識低い系かつめんどくさがりなので絶対途中で投げ出すと考えてはてなブックマークもやっていませんし、読まれる記事を書くなんてしちめんどくさくて投げ出すに決まってるのでグーグルアドなんちゃらもやってません。雑誌で腹筋の特集の表紙などを眺めると腹筋だけは手を出そうかな…と考えるのですが、付き合ってる相手が筋肉フェチではないことに加えメタボでないし高校卒業以来体重が変わらずなのでその点で手を出していません。メタボの兆候がでてきたら挑戦したいところですが、サボりそうなことに手を出さない期間が長いのでサボらずにできるかちょっと不安が。サボらずにできると良いのですが。

「大江戸りびんぐでっど」

シネマ歌舞伎「大江戸りびんぐでっど」を観ました。個人的に小学生のなつやすみ感想のように「おもしろかったです!」で済ませても良いのですが、(メイクがかなり生々しかったりするので)問題作とは云わぬもののかなり評価の割れる作品のはずで、でもって簡単に終わらすのはもったいないのでもうちょっと書きます。

不粋ないくらかのネタバレをお許しいただきたいいのですが、西洋でいうところのゾンビが江戸にでてくるおよそ10年前の歌舞伎作品です。いまゾンビと書いてますが作品では存鼻とされ、市中へのゾンビの出現に当然のことながら奉行所も困惑するシーンがあります。ゾンビは言語に意思疎通ができないことはないけど困難で、容姿も生きてる人間に近いけど同じではありません。しかし死者ではありませんし死の反対の概念である生きてる人間と同等か?といわれると確実に違います。奉行所の困惑を通してゾンビとはなにか?とかいうのことを観ているこちらにも問いかけます。しかし突き詰めることはせず、奉行所も江戸の人たちも存在を許容しつつ同等ではないものとして扱い玉虫色の妥協策をし、しかしそれが江戸市中の人々の生活や安全を脅かす伏線になってゆきます…って(それに気がついたのは終盤に差し掛かってからで)詳細は何かしらの方法でご覧いただくとして。笑かすエピソードが散らかりつつも風刺を入れつつも根幹の物語が詰め込みすぎなわりに緻密で100分を越える作品にもかかわらずスクリーンから目を離す隙がほとんど無かったことを告白します。

風刺と書いたのにはわけがあって、作品中に若くはない女郎が若い男に対し、意思をかまわずに性的に襲い掛かるシーンがあります。江戸では無い平成令和でも若くはない者が若い者を性的に襲うのは残念ながらいまでもありますが(私は同世代のひととしかほぼ同意のうえでいたしたことしかないのでいまいち理解しにくいのですが)、相手の意思を問わずに襲い掛かろうとするのは別に人間でもありえるわけで、生身の人間とゾンビとどこが違うのだ、といわれると答えがないです。わりと「品がない」とされてしまう可能性のある描写で笑かすエピソードっぽい扱いでしたがあえてそれを入れた作者の宮藤官九郎さんの視点にちょっと唸っています。またゾンビを同等ではないものとした途端に格差があたりまえでそれに登場人物誰もが疑問を抱かないところも、自らと異なる存在は下にみてよいという風潮に根っこのところで通じる気が。

さてゾンビは「あー」とか「うー」としか云わぬものの、つまり単語を発したりせず言葉が言葉になっていなくとも、物語の進行につれてなんとなく云わんとしてることが観ているこちらにも理解できそうになってくるのがちょっと興味深かったです。ゾンビの役の役者さんが巧かったというのに尽きるのですが、意思疎通って言語だけじゃなくて身体表現などでもかなり伝わるのかもな、と改めて気づかされてます(もしくは私もゾンビなのかもしれぬ可能性もあるのですが)。

役者ついでに書くと、物語には落語の「居残り佐平治」「らくだ」「死神」のエピソードがでてきます。「死神」の部分に獅童丈がでてくるのですけど(なので「あじゃらかもくれん」は獅童丈が云っていた)、なぜかこの獅童丈だけが役にはまっておらずなぜか照れながらやってるように見えてます。そこだけが残念で、しかし「死神」の時の獅童丈を除くと私は物語の中にほんと引き込まれていました。当時の市川染五郎丈(いまの幸四郎丈)を筆頭に、亡くなった勘三郎丈や三津五郎丈、闘病前の福助丈、そして扇雀丈や片岡亀蔵丈など巧い役者が揃っていたせいもあります。もちろん生とか死にまつわるシリアスな場面もありますし歌舞伎の領域として型などは守りつつも、セリフを含めはっちゃけるところは思いっきりはっちゃけてるので(笑わせようとするところは本気で笑わせようとするので)、ほんとゲラだなと呆れられた程度に何度か腹を抱えて笑いだしそうになるのを必死に堪えてました。

正直万人受けする作品ではありません。でも、なんだろ、怪作というか快作であることは間違いなく、いつかコロナが収束したら再演して欲しい演目ではあったり。なお松竹MOVIX系で来月2日まで上映中です。

桃の記憶

相変わらず東京の状況はシビアですが、それとは関係なくどうでもいい話をします。

バカにされそうなことを書くと私は本を読んででてきた食べ物のことが妙に気になることがあります。なので読んだラノベなめろう丼がでてきたあと、自作したりしてます。

高校生の頃に井伏鱒二の「黒い雨」を読んでいて本筋とは別に当時の食糧事情が書かれてて妙に記憶に残ってて、いまでもそのくだりを覚えています。最初は配給は米だったもののそのうち大豆の搾りかすになってしまい、6日の当日の朝の献立はその大豆の搾りかすに浅蜊の塩汁だったそうで。作ろうとは思いませんでしたがどんなものかは調べようとして大豆の搾りかすがおからなのだろうなとすぐ推測はついたのですが、塩汁は正直わかっていません。潮汁のことかもと推測していますがって…汁物の話をしたかったわけではなくて。話をもとに戻すと「黒い雨」には召集を受けて広島に居てピカドンに遭遇した備後地方の医師の話も触れられています。被爆してから奥さんが備後の隣の岡山に桃を買いに行き、卵と桃で結果として生命をつないだ話がなぜかずっと忘れずに記憶に残っていました。

さらにバカにされそうなことを書くと、親が病気になったとき父の時も母の時も黒い雨の例を覚えていたので桃を買っています。薬の副作用などで食欲がないときなどに金に糸目をつけずに旬の桃を買ったりしていました。ありがたいことに東京の隣は桃の産地の山梨で手に入りやすい環境で、文字通り毒にも薬にもならないので症状改善には何の関係もないのですがしかし食欲が無くても桃は完食のことが多く「桃ってすごいな」と思わされています。結果として知らなくてもいい知識が増え、7月の桃(たとえば白鳳など)は比較的やわらかく、8月になると出回る桃のうち川中島白桃や一宮白桃は締まっててたり本白桃(いわゆる白桃)はなめらかだったりと、多少は詳しくなってしまっています。

もっとバカにされそうなことを書くと、親はもういないしいまとなっては特に買う必要もないのですが、各種一かけらくらいは口にしてしまってて味を知ってしまったがゆえに、ずっと夏(バテの時期)になると「以前お世話になったし御礼を兼ねて」とか理屈づけして買っていました。今年もいちど買っています。週末まで東京は再度猛暑日が続く予報で再度桃を買うかどうか迷っているものの「桃狩りの観光客もいないだろうし産地を食べて応援しなくちゃな」という理由で買ってしまいそうな気が。理屈と膏薬はどこへでもつく、といいますがたぶん山梨の桃にもつくのではないかな、と(異論は認める)。

食い倒れという言葉の意味は食べ物に金をつかってしまうことのはずなのですが、桃を前にするとその危険性がちょっとだけわかるようになっちまいました。桃は個人的にはちょっと危険な果実です。