身延線の車窓から

子供の頃、富士山は木花咲夜姫という神様であると教わりました。姫という名のつく通り女性の神様で、しかしながら短気で、同じ甲州八ヶ岳がおのれより背が高く美しいと気づいたときに嫉妬して棒でぼっこぼこにしてしまい、八ヶ岳は無惨な姿になり結果として富士山は高くて美しい山として知られるようにになった、という神話もしくは昔話とセットです。それらのことを前提に富士山について神をも恐れぬことを書くと、悪く云えば「どこかめんどくさい人」感が、良く云えば人間臭さを感じるところがないわけではありません。擬人化というか限りなくフィクションに近いものにそのような感想を持つのは噴飯ものではあるのですが。

いつものように話は横に素っ飛びます。

(よい子のみんなはわかんなくていいですが)童貞とか処女のときは別としてそうではなくなると肌着の下になにが隠れてるのかを知ることになります。しかし「そこになにがあってどんなかたちかは知っている」ことは「肝心かなめのところが見える」「肝心かなめのところが見えない」という状況になると人を歓喜させたり落としたりする状況を招くことがあるはずです。でなければ、チラリズムなんてことばが存在しないはずなので。

話を元に戻すと土曜に山梨へ行っていて、中央線往復はつまらないので身延線に乗って富士宮経由で帰京しています。その身延線沼久保駅を過ぎて西富士宮駅に至るまでのあいだ、そこは雲さえ出ていなければ富士宮の町を抱くように富士山が見え(言い換えると富士宮の町の向こうに富士山が見え)、身延線でいちばんの絶景と個人的には云い切れる場所です。

でもなんですが。

すそ野はともかく富士山は雲隠れ状態でした。隣で「あ、ダメか」と少しだけ落胆してて「こればっかりは神頼みだから」としか声をかけるしかなかったのですが、見えればよいなと期待して実際に見えた見えないで歓喜したり落胆したりする点も含めて、富士山は人もしくは人の身体に似てるのかなあ、と。いやぜんぜん違うだろ?といわれればそれまでなのですが。ついでに書くと「今日は気が乗らないから見せてあげない」的な気まぐれでイケズでめんどくさい人感が富士山に対して増しています…って書けば書くほど噴飯ものなことを書いてしまいそうな気がするのでこのへんで。