短歌の素朴な謎

なんだか日が経つにつれ、首都圏は出来の悪いSFよりどんどんシビアな状況になってる気がしてて、それについて書いたところでどんよりするだけなので、ちっともシビアじゃないくだらないことを書きます。

東武伊勢崎線スカイツリー駅は以前は業平橋という駅名でした。在原業平に由来する名前です。業平が生きていた時代なにがあったかというと三陸地震が起き富士山は爆発し、(疫病をなんとかするために貞観にはじめたのが祇園祭という説もあるくらいなので)疫病があったことになっています。それらを詠まずに関係なさそうな歌ばかり残っています。謎というか貴族とはいえ役人なんだから優雅に歌なんか詠んでる場合じゃないのでは?と思っていたのですが、考え方を改めたのが古今和歌集の撰者のひとりである紀貫之がかいたといわれる仮名序の一節

力をも入れずして天地を動かし目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ男女のなかをもやはらげ猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり

を知ってからです。勅命で和歌集を作ってその序文なので本気で短歌で世をなんとかしようとしていたのかもなあ、と。いまの時代はエビデンスが求められそんな非科学的なこと出来ないと思いますが。

在原業平とされる百人一首の絵を眺めたことがあるのですが、着物の袖口を持ち上げてたり口に近づけてたりすするもがありました。ほんとにそういう格好をしてたのか、後世の画家が勝手に創作したものかどうかは定かではありません。ただ百人一首であれば持統帝であるとか、百人一首に限らず絵巻物に出てくる女性を描いてるものにも、なぜか袖口や扇で口を隠そうとしたり隠してるものが多かったりします。なんでなんだろうとずっと謎です。が、ここのところのマスク不足で気が付いたのですが、疫病のリスクがあってマスクのない時代、くしゃみや咳きや喋るときに唾が飛ばぬよう、もしかして袖口や扇で口を隠すのがマナーであって、すぐ口を隠せるように袖口を口に近づけた姿を描いていたのかな、と。違うかなあ。もちろん袖口で口を隠すだけで感染を防御できるかのエビデンスはありません。

日本文学をやったわけではないので正確ではないかもしれぬものの謎ついでに書くと

不思議と桃って短歌では詠まれていないような気が(無理やりあかるい話をつなげてみました)。それもちょっと謎であったりします。鮮やかすぎると短歌には向かないのかもしれませんがって風雅を解せないのでわかりません。

買い出しの時に眺めてたのですが、首都圏は桃(キクモモ)が咲いてます。