国語力の低下

なるべく野球と政治の話は自制しようと考えてたのですが今夜はちょっとお許しください。

14日付毎日新聞夕刊にさだまさしさんの寄稿がありました。たとえば平等について100人いる避難所に120個のケーキが来たらどうするべきかとか設問を投げかけて問うていたりと読んでいて考えさせられる内容なのですが、印象深かったのが言葉に関する次のくだりです。

有事において国や行政の態度、殊に言葉に国民は敏感だ。真実の情報が知りたいのだ。コロナ蔓延の正確な情報の少なさに誰もが怖がっている。「知らないという不安」が混乱を招く。これはリーダーたちの「言葉力」「日本語力」の不足だ。有事に際しては今の危機、その手当、次の指標、次の手当、そして出口の目標を示すべきなのだ。自分の言葉で、自分の哲学で、誰にでも分かる言葉できちんと説明できる人が欲しい。

 (寄稿・コロナ禍が問う「自由と平等」・さだまさし

いつものように話が横にすっ飛んで恐縮なのですが。

読んでいちばん最初に想起したのはイギリスのジョンソン首相のスピーチです。ジョンソン首相が新型コロナに罹患して退院したあとのイースターのスピーチをイースターのあとに聴いています。(外出しないことや外出時に社会的距離をとったりすることなど)国民がなすべきことをしてくれてるので(thank you,because so millions and milions people across this country have been doing the right thing)それがNHS(国民保健サービス)を守ってることになってることに謝意を述べ、またfightであるとかnational battleという言葉を文中に差し込みつつ 、現場の医師、看護師、検査技師、薬剤師、清掃員などのスタッフに謝意を述べ、私たちは新型コロナに一緒に打ち克とう(We will defeat this cornavirus and defeat it togther)、NHSを守ろう、社会的距離を取ろう、と述べています。イギリスとて日本と同じく新型コロナの正体をつかみ切れていません。韻を踏むようにthankという言葉がかなりの回数で頻出しますが具体的な数字は一切出てきません。でも繰り返しになりますが、協力に感謝してること、まだ危機であること、戦わねばならぬこと、そのために社会的距離をとりそして外出を控えること、一緒に打ち克とう、などが英語を母語をとしない人間にも印象に残る程度の(おそらく)自分の言葉で語ってるであろうスピーチで、こんなふうに日本語で語れる政治家がいればなあ…と感じていたのでかなり印象に残っています。なので上記のさださんの「誰でもわかる言葉できちんと説明できる人が欲しい」というのはすごく腑に落ちています。

また、’(国民が)真実の情報を知りたいのだ、というのもなんだかすごくよくわかるのです。目安としての三七度五分が四日連続、という受診の目安が今月に入って削除されてて「は?」となってたのですが、なんだろ、血液の数値に若干の不安がある・若干健康に不安があるほうからすると、この国ほんと容易に信用できないし怖いなあ、と思ってます。

ただ人のこといえるかというと怪しいです。というのは、さださんは寄稿したコラムの中で国語力の低下が日本の最大の弱点とも指摘してます。日本語を母語としつつも巧く日本語で文章を書けずにパソコンの前で「うがーっ」となってることが多いので背中に矢が刺さって痛いです。ルーマニアの哲学者の「人は国に住むのではなく、国語に住んでいる」という言葉も引用しているのですが、なんだか皮膚感覚としてはよくわかる気がしてます。社会の問題としてだけでなく社会を構成する一人の人間として、なるべく国語力を上げるように(具体的には自分の言葉で、かつ、読んだ人が意味を理解できるよう書くように、ちょっとは)努力しようかな、と思いました。