「幸運」と「ぜいたくな悩み」(もしくは逃げ道がないときのこと)

今朝(19日付)の毎日に北大の先生が昨今の新型コロナ関連の政府の失策について寄稿していました(「五輪で隠せぬコロナの失策」・岩下明裕北大教授)。詳細はお読みいただくとして論旨はおおむね同意なのですが些細なところでひとつだけ引っかかったのが、職域接種や大学での接種でワクチンを受けた人たちを「幸運」としてることです。「ワクチンの副反応が大変だ」という情報がSNS等に駆け回ることがワクチンを打てぬ人たちにはぜいたくな悩みだろう、とも書いてらして、8月の第一週にモデルナ第一回を打った・副作用がでてきた私は、果たして「幸運」だったのだろうか、そして副作用をいうのは「ぜいたくな悩み」なのだろうか、ということを考えちまっています。

ワクチンの副作用についてSNS的なものに書いたとき、実は直接的ではなかったけど「うちの自治体はまだなんですよね」ということを云われています。その人から見れば私の副作用などどうでもよいはずで、「消せ」といわれたわけではないけど消しています。しかし他の人が他のタイミングで書いても無反応だったのでいまのところ「ああ私が嫌われてるのか…」とそのときは出来た人間ではありませんから嫌われてても不思議ではないと思って腑に落ちていました。でもって、そういう経験があったので今朝の寄稿の語句がちょっとひっかかった、というのがあります。

リモートできない職種なので第一波の頃からずっと都心部へ通勤を続けていて、個人はできうる限りの対策はとってますが、万一感染してしまったとしてもおそらく昨今のこの状況では自宅療養になると思われます(そうなっても不思議ではないと考えて缶詰とか冷食を備蓄はしてある)。1回でも接種の機会があったのは幸運かといえば幸運かもしれません。都心部への通勤を継続する人の中にけっこういるはずのリモートできない勢であることは、それがワクチン接種の免罪符になるかな、と思いつつ、ワクチンを接種することになぜ免罪符という言葉がでてくるのだ、と考えて、思考はまとまりません。しかし唯一いえるとしたら機会があったときに積極的にワクチンを接種しないという判断は正しいかといえばおそらくそんなことはないはずです。

副作用を云うのも贅沢悩みなのだろうかといえば、副作用は楽なほうにもキツいほうにも個人差があるはずで、キツくてもいうのが贅沢だとして憚られる雰囲気というのは実は地獄なのではあるまいか、とも思えますし、そもそもキツくてもキツくなくても発言すべきではないというのは(明言されてるわけではないけど)ちょっと怖いなあ、と。

先にワクチンを接種した側はあとにワクチンを接種してない側に比べて先にワクチンを接種したという事実をもってして、「先に接種しやがって」という言葉を投げかけられたとき逃げ道がないのですが、他人の口を封じることはできませんから根が悪人でもいわゆる善人であろうとすればそれに耐える以外選択肢はなさそうです。「幸運」であるというのと「ぜいたくな悩み」というのはおそらく「先に接種しやがって」の変形で、(悪人であろうとすれば別として個人的には不本意なのですが)耐えるしかないのかなあ、と。耐えきれずに不貞腐れるわけにはいきませんから、私個人はいつもと同じように・いままでと同様に、注意を払いながら働くつもりです。

でもってワクチンを接種できた側・接種できてない側で分断が起きてるのは確かで、なんでこんなことになっちゃったかといえば、ワクチンの供給不足や配分の不手際に行きつきそうなのですが。

岩下教授はワクチンの供給不足や配分の不手際を含めて各種の失策を五輪では隠せぬことを指摘しつつ責任逃れがあってはならないことも指摘してて、そこらへんは同意です。

くだらないことを書くとこれを書いているのはかつて美青年だった…じゃねえ、くたびれた勤労青年だったくたびれたおっさんです。「ぜいたくな悩み」というのとは無縁でした。なので副作用をいうことが「ぜいたくな悩み」と知って、おそらく今回はじめて「ぜいたくな悩み」童貞を卒業しています。意図せずのことなので、ちょっと悲しいような。