投書階級(もしくは統制を可能にするもの)

毎日新聞は月に一度、近代史の専門家の(読み応えのある)寄稿を載せます。今年は井上寿一学習院大教授で、今月の15日付朝刊では西大寺の事件を踏まえて二二六など過去のテロ事件的な直接行動の事例をあげ、しかしそれらが時代の潮流を変えることはなく、また国民がそれらに扇動されることがなかったことを示しつつ、その後の言論統制について触れていました。井上教授の寄稿を読むまで知らなかったことなのですが怖いことにそれらの言論統制には民意が確実にあったことで、たとえばラジオ局から特定の音楽が排除されたものの、その背後には排除を要求する投書をする「投書階級」の存在があったそうで。脱線して恐縮ですがナチス政権時代のドイツは党主導で退廃音楽としてユダヤ人作曲家の音楽等を排斥したのですが、日本は言論統制のひとつが組織的なものではなく民間から湧き上がった意思表示であったわけで。

話をもとに戻すと、令和のいまはSNSに「投書階級」が居て西大寺の事件を踏まえて政治を動かそうとしていたとも井上教授は述べ、牽強付会な議論もあって言論の質の劣化があると指摘し、死亡した元首相の政治的遺産を継承するにしても批判的に克服するにしても質の高い議論を、という提起でその寄稿は締めれれていました。近代史の専門家による丁寧な文章で、腑に落ちてます。ただ同時に、誰でも参加できる制限のないSNSって戦前の言論統制を可能にした「投書階級」的な使い方も可能なわけで、機能的に同質性のある人を結び付け易く付和雷同を招きかねないことを考えると、一歩間違えれば戦前のようになってゆく温床にもなりえるのかも、と気づかされ、唸らされています。

心理学をやったわけではないのでヘタなことは云えませんが、イメージが感情を生み出すのではないか、その感情が行動に結びつくこともあるのではないか、という仮説を持っています。仮に、異なるものを排斥排除する統制を求める感情がなにからくるか、といったら、正しさが実現されておらずその正しさのために排斥排除すべきという正義感なのだろうか、と考えてしまうのですが、その正しさというのは『吾輩は猫である』に出てくる(誰もがそれを口にするけど誰も見たことがない天狗のような)大和魂と同じくらい空虚なもののような気がしてなりません。しかし空虚ゆえに考えずに抵抗なく大和魂と同じように疑問を持たずに誰しも口にしてしまってもおかしくないわけで。過去にあったことが再度あり得るか、といったら、それはわかりません。わかりませんが、飛躍があるのは自覚しつつも、以前フィクション・ノンフィクション等で知った戦前の状況になんだか転がってもおかしくないように思え、ちょっと怖いなあ、と。

投書階級から思考が謎発展してしまったのですが、政治の話は苦手なのでこのへんで。