「マイクロアグレッション」雑感

8日付毎日新聞朝刊にマイクロアグレッションという概念の説明の記事がでていて、私はカタカナ語が苦手でなるべく避けてきたので限りなく初耳に近いのですが、興味深く読みました。簡単にいえば従来の差別とはまた別の多数派からマイノリティに対する「あからさまではない無自覚な攻撃性を持った言動」のことで、あからさまな差別よりも精神的・心理的負担を受けるとされてるものであったりします。

寄稿してる上智大の出口教授の記事の実例でいえば、英語圏におけるアジア人に対しての英語話者からの「英語が上手ですね」や、朝鮮名を名乗ってる在日コリアンの人が日本語話者から「日本語が上手ですね」という場合です。これらの場合は語句としては明示していませんが「よそ者」といってるに等しいわけで。出口教授によれば、差別という言葉以外に否定されたり蔑まされた体験を表現する言葉がいままでなかったものの、マイクロアグレッションという概念の登場で、攻撃性が可視化出来たわけで。上記の例でいえば発言者個人の意図はほめてるつもりのポジティブなものであっても、抑圧的であるともいえるわけで。

もう少し突っ込んでいるのが早大の森山准教授のインタビュー記事です。「何が差別でなにが差別でないのか、読者にわかりやすく説明して欲しい」という取材を受けることがあることを明かしたうえで、マイクロアグレッションの概念が受け入れられにくいのは「日常の些細でたわいない言動による」ものなので、「『NGリスト』を作ると項目が無数に増えて」「『差別だ』と批判されるリスクを回避するために、どんな『ライフハック』があるか」という考えでは対応できなくなるからではないか、と指摘しています。続けて、森山准教授は

人が差別を指摘されて反発するのは「差別をするのは悪い人間だ」という前提を持ってる上で、「自分は悪い人間ではない」と思いたいからだろう。だから、差別の定義を直接的で明確な悪意のある言動や制度に限定したがったり、「自分は差別していない」と思いたがったりする

とも述べ、差別の定義を狭く考えないほうが、とも提起するのですが、詳細は毎日新聞をお読みいただくとして。

出口教授も森山准教授も、事例は異なるものの発話者と受話者の属性が異なるときに、発話者の褒めるの意図の言葉が攻撃性を持つことを指摘しています。ゆえに受話者は負担や違和感を感じても発話者の誉めてる意図とは異なりますから反応に迷うし、発話者側も褒めることが受話者の負担とは露にも思わぬはずですから再生産が続きかねず、月並みな言葉を書くと言語の意思疎通の難しさを再認識してます。出口教授は誰もがやりかねず、誰もが当事者、と喝破してるのですが、私はセクシャルマイノリティですがそれだけが私の属性のすべてではありませんから、いままで偶然やってこなかっただけで、やっててもおかしくないかもしれぬ、とは思いました。

書いてあることは思い当たるフシがないわけではなく、その点からも目からウロコではあったり。文筆や口舌でメシを喰おうとかそういうのではありませんが、ちょっと留意しなくちゃな、と。