起こるべき事態の予測

私はいまは相応にくたびれたおっさんですが、10代の頃は週刊少年サンデーパトレイバーを楽しみにマンガを読んでいました。ちょっといいにくいのは途中から親しかった女の子の影響からか那須雪絵というひとの単行本のコミックスも読んでいて「ここはグリーン・ウッド」とか「フラワーデストロイヤー」、やまざき貴子というひとの「可視光線」とか「っポイ!」もちょっと読んでいました。ついでに書くと中島梓という評論家に興味を持ってしまい「やおい」という単語をうっすら知っていて、心理描写や背景設定やストーリー展開がしっかりしていれば抵抗なく読めていたので秋里和国さんの「眠れる森の美男」とか、いわゆるBLのものも読んでいないわけではありません。
ところがいつの間にか全然手を出さなくなりました。
前述の長い連載になっていたはずの「っポイ!」が完結したってのは知っててて、登場人物である「万里」や「平ちゃん」がどうなったかってのは気にはなるものの、買って確認するほどにはなれず、なんとか元気にやってるはず、くらいの意識で未読です。「大人になってしまった」ってので済ますことが可能ですが、大人の誰もがマンガを欲しないかなんてことはないですから、たぶん答えになりません。おそらく個人の問題です。
とするといつのまにかわたし個人に変化があってマンガを必要としなくなってマンガを卒業してしまったのかもしれません。振り返るとなぜ以前は「マンガを必要」としていたのだろうっていう疑問がでてくるのですが、おそらくマンガの創作物には麻薬性のようなものがあって、しんどさをごまかす・現実を忘れさすための麻薬として物語としてのマンガが必要であったのかも。いまは相応の精神力がついたのと音楽という別の麻薬を手に入れてしまったわけで必要性が低下したのかも。
はてな今週のお題が「卒業」なのででつらつらかいてきたのですが、ちょっとくだらないことを書きます。はずかしながら性を意識したのはマンガの火の鳥です。女性の登場人物が着ているものを脱ぐシーンがあって・脱ぐところを描写するのではなく衣が床に落ちるシーンがあって、二十数年以上たってもその描写は覚えています。乳房とか性器とかよりも実はこれからなにかが起こることを予感させる空気にどきどきしていたのです。そのシーンの影響からか、エロの本質というのは人の身体にあるんじゃなくて、起こるべき事態の予感にあると思っています。いまでもシャワーを浴びに行った相手の脱ぎ捨てた衣服をみるとなんかこう「えっちだなあ」と思うところがあったりします。マンガから卒業できても、そういう点ではまだマンガの影響からは完全には卒業できてないところもあったり。