「大人になって勉強することはみっともない」

大学は法学部でしたが、しかし法学部であったとしても「自称あほうがくぶ」でしたから私は法曹に道にはてんですすまずにふつうの会社に入りました。会社に入っても最初は現場というか現地現物を前に法学部の知識とは最初は関係ないことをやります。そのうち法学部だったよな、ということで役所の対応とかなんとなく関連するようなことを担当しました。幸いにして先輩に恵まれたので「簿記はおぼえといたほうがええ」という忠告を受けて簿記を社会人になってからかじります。簿記とエクセルを覚えて東京に異動し、デスクワークでわけあって途中から税法が絡んでくるようになってしまったので税の勉強をしました。もちろん税理士になるつもりもないので酒税法はやっていません。でも専門家とは毎期適度に話せる程度の知識を持ち得るまでにはなってます。ここらへんの勉強は、必要に応じての話です。
「大人になって勉強することはみっともない」というのがはてなで話題になってて、へーそういう考え方があるのかー、などと思ってたのですが、でも別に必要ならばどんな学問も「みっともない」という第三者目線のことを気にする必要はないのです。水道の蛇口をひねる・井戸に水を汲みにゆくのと同じで、勉強するのは必要があれば十分のはずです。また「勉強」というのは果てがないので終わることがありません。大人になってからの「勉強」はそもそも試験がないので、その人の信用にかかわってきます。こいつならダイジョウブそうだなという信用を維持するためには「勉強」は果てがないです。正直、法学も税もそうですがアップデートというか「勉強」をしないと過去の学習は無用の長物になります。そもそも「みっともない」が介入する余地はありません。また社会のニーズから隔絶された場所に身を置く経験こそが「考える力」をやしなう、なんてのもあるのですがそれがいちばんおっかないのです。現地現物からかけ離れたところから「考える力」をやしなっても地に足がつかない頭の体操にしかならず意味があるとは思えないのです。もっとも意味ってのはあれっす、脳内で納得させるためのツールで、どこにでもくっつきますが。
そんなものなのかなーと思ったのが、おとなは「知性を磨くために興味のある分野の本を体系的に学ぶ」ほうがいいってことも述べられてるのですが、本を読んでも得られるのは知識の集積であって、知性ではないでしょう。知性というのは「どういう判断をするのがよいか」とか「どういう問題が潜んでいるか」とか「ある問題をどうやって解決するか」とかそういうのが知性なのです。過去にあったことの事例を知識として学ぶことはできても、過去の事例がいまにつながらないから厄介で、本で知識の集積をしたとしても知性を磨けるとはかぎらないです。
でも世の中違うのかもしれません。そっかー「勉強することがみっともない」なんていう人が居るのかー、「本を体系的に学ぶと知性がつく」と思ってる人が居るのかーと思いつつ、たまに自分が育ってきた環境ってのが、特殊だったのかなあ、と思うところがあったり。ついでに書いておくと過去を振り返っても勉強は好きではなかったけど、みっともないってことは一度もなかったかな。