笑っていいともの終焉(追記あり)

笑っていいともという番組を観ていたのはせいぜい高校生くらいまでで、でてたのが奥山佳恵さんとか森脇健児さんとか覚えてるのはそこらへんです。だから思い入れがあるかといったらほとんどなくて、終わることがニュースになるというのはちょっと意外でした。

タモリさんは芸人と思うとおそらくその姿を見誤ります。おそらくアドリブを相当得意とするジャズの演奏家です。
イグアナのものまねがあまりにも有名ですがイグアナの模倣ではなくタモリ流イグアナをアレンジすることで対比させてます。根っこはおそらく変奏です。各種言語のでたらめな空港のアナウンスというのもあるのですが、まじめな空港のアナウンスがあってはじめて成り立つのですけど、強烈なアレンジをするので非常に面白いのです。やはりこれも変奏です。空港アナウンスとかイグアナとかある種、根っこにまじめなこと・やきちんとした流れ・形式的なことがあってはじめてタモリさん・タモリさんの変奏の才能は生きてきます。タモリさんはそこにアレンジを加えて、こうじゃないの?とやるのです。笑福亭鶴瓶明石家さんまという伝統話芸畑の人としゃべらせるとひどく面白いのはそのせいです。彼らは落語という基盤があって専門家で、笑いがどのようなものか・どうしたら面白くなくなるかを知ってるので、タモリさんはその流れにのりつつ、食いついて変奏したり話を拡大させ反応を観て逸脱したりします。相手が専門家であればあるほど自由度は増します。間寛平という稀代の芸人さんともなれば安心して嬉々として同じ土俵に乗りフリーダムに即興で面白くします。寛平さんが主導してくれるので、タモリさんはそれに応じながら変奏を加えます。収拾がつかなくてもその収拾のつかなさがドキュメントたりえるテレビの面白さになりえます。
それが利かないことがあるのがテレフォンショッキングでした。初対面に近い人とも相手しなければならないあのコーナーほど、大変なものであったのではないかと思います。相手がなにかしらの専門家であればそれを軸に話を膨らませ、ときには逸脱して、アレンジをくわえて面白くできますが、そうならないときは食品や料理、旅行や地方の話を振ります。食べものは誰もが食べますから相手も食いつきやすく、話が膨らましやすいのです。タモリさんが料理好きであったことも幸いしたかもですが、やはりそこは相手の出方を観てそこにアレンジを加えてゆくアドリブの才能が生きたのではないか、と思います。
芸人ではなく音楽家であればあるほどここ何年かはどうやってエンディングに持ってゆくか、余韻を残しながらギグを終わらせるか、おそらく考えていたはずです。まずは多くの人への感謝を表しながら、最後の章に取り掛かりました。どうやって終わらせるか、実は音楽家タモリとして腕の見せ所だとちょっと期待してます。
最後に一視聴者がいうのもあれですが、ブラタモリでは非常に楽しませていただきました。できることならお昼の顔ではなく(古地図片手にとはいいたいのをぐっとこらえて)もうちょっとどこかでタモリ節がきけたらな、とすこしだけ思ってるんすが。