名前だけはどこかで読んだことがあるけどその実詳しくは知らない有名な人、というのに能町さんが居ます。ブラタモリは視聴してもヨルタモリを視聴してないので能町さんって人を知らないし、容貌も知りません。ただどちらかというとマイノリティに属し、その後戸籍も変えていて「オネエ」ではない、ということは知っていて、能町さんを「オネエ」として扱ったテレビ局に本人が訂正を要求した、という報道を知って、なんとなく理解できるものがあります。
主流の流れからみてかけ離れてる存在が居て、かけ離れてる存在がこういうものだというふうに勝手に定義して、問答無用で一個人を入れてしまうことってのは暴力的で危険なことです。差異があるんだけど差異がないようなものとして扱われるというのは人として見てないのと同じなわけで、それを無意識のうちにテレビ局がやってるとすれば、なんのことはない、その人をひとりの「人」として扱ってないのと同じであるからです。おそらくそれが「差別」の本質的なところのひとつのはずです。本人が「そうではない」というものを外見から勝手に判断してしまうことにメディアのほうに問題意識がなかったら、それはそれで怖い世の中なのです。
怖い世の中は前からで、最近は減ったけど、お笑い番組かなあ、人を驚かす手口にマイノリティがでてきてて笑いのネタにしちまったりとか、笑われるということがどういうことか理解してたらあんまりしないと思うのだけど、この国では同じ血が流れてるとは考えてないのではないかなあって愚考してるのですがってはなしがずれた。
このブログをいまどういう人が読んでいるのかまったく想像がつかないのですが、このブログを書いてる人間はどちらかというとマイノリティのほうに属する人間で能町さんの件を知ってけっこう暗澹としてきちまうのですけど、ってテレビには出ないからあんまり関係なさそうですが。でも世の中、ちょっとは変わってくれないかなあ、ってのはあったり。