開高健記念館

午前中に用が神奈川県内であって、そのあと数駅乗って茅ヶ崎まで。

しばらく歩くとラチエン通というのがあります。サザンオールスターズに「ラチエン通のシスター」って曲がありますが、たぶんこの通りのことかなあ、と。で、この通りにあるのが

茅ヶ崎市開高健記念館です。没後20年以上たちますが、開高健という作家がいてながいこと茅ヶ崎に住んでいました。存在は知っていたのですがなかなか訪れる機会がなく、今日ならなんとかなるかな、と思って茅ヶ崎で下車したのです。で、私は文学からほど遠いところに生きていますが、裸の王様とか輝ける闇とか青い月曜日他、高校生のころに開高さんの小説等を読んでかなり影響を受けています。影響を受けていますっていうか、書いてあることが重いのです。たとえば短編集の「玉、砕ける」の一節

白か黒か。右か左か。有か無か。あれかこれか。どちらか一つを選べ。選ばなければ殺す。しかも沈黙していることはならぬといわれて、どちらも選びたくなかった場合、どういって切りぬけたらよいかという問題である。二つの椅子があってどちらかにすわるがいい。どちらにすわってもいいが、二つの椅子のあいだにたつことはならぬというわけである。しかも相手は二つの椅子があるとほのめかしてはいるけれど、はじめから一つの椅子にすわることしか期待していない気配であって、もう一つの椅子を選んだらとたんに『シャアパ(殺せ)!』、『ターパ(打て)!』、『タータオ(打倒)!』と叫びだすとわかっている。こんな場合にどちらの椅子にもすわらずに、しかも少くともその場だけは相手を満足させる返答をしてまぬがれるとしたら、どんな返答をしたらいいのだろうか。史上にそういう例があるのではないだろうか。数千年間の治乱興亡にみちみちた中国史には、きっと何か、もだえぬいたあげく英知を発揮したものがいるのではないか。

と、香港で旧友に訊くのですが、その旧友は困惑した挙句なかなか答えをだせません。あるとき老舎という中国の作家の話をして、その老舎が革命後の知識人の生活についての問いに答えずに三時間にわたって田舎料理について語りだし、それがどんな鍋で、どんな味で、どんなふうに泡がたつかなどを微細生彩に描いた話をします。きわめて暗示的であったと書くのですが、もちろんこたえは小説の中では提示されません。でもこの料理の話が私には強烈で、舌はもちろん目や鼻をつかい正確に見ることが大事なのではないかとか、しんどいことを考えずに余所見するというか、物語の海に沈むのも悪くないんじゃないかとか、なんらかの手がかりを探そうとしてるのですがいまだわかりません。なんで私にとってこの主題が重いかというと高校生のときはそんなことはなかったのですが育つにつれて沈黙したいことがある人間で増えちまい、同時に白とも黒ともつかぬ人間だからなんすが。


館内、館外のあちこちに生前の文章が引用されています。

「明日、世界が滅びるとしても今日、あなたはリンゴの木を植える」って、文学から遠く離れて目の前のことを淡々とこなしてるんすけどもひどくわかるけっこう強い言葉です。もとネタはルターのことば(だったはず)で改変されてるのですが、けっこう好きな言葉です。世界とは関係なく、課題を解決したり、個人的営為をきちんとこなすほうがいい、っていうふうに解釈してるんすけどあってるかどうかはわかりません。この言葉の通りこの文字を改めて目にしちまった私はリンゴの木を植える代わりにこうして文字を書いてます。開高さんは生前「言葉が美しくそして強いのは言葉の背後にあるものの構築が緊密な迫力を持ってるときであって決して言葉そのものではない」と喝破してるのですが、なんだろ、個人的には言葉えらびがすごく迫力をもってることが多いっす。迫力をもつのは言葉を受け取る個人のものに由来するのか、それとも発するほうに由来するのか、その両方なのか、どっちなのか、正解はわかりません。
写真もオッケイだったので数枚撮影してきました。

遺品もけっこうあります。釣り道具なんすが釣り道具がいろんな人との交流を発生させそれが作品に生きてきます。個人的に興味深かったのは作品のなかにも出てくるベトナム取材中(読んだことがない方のために説明するとベトナム戦争に関する作品もけっこう多い)の、いざというときのために命乞いするためのベトナム語で【タスケテ頂戴】と書かれた日の丸と、お守りがわりに持ってたジッポライターです。特にライターのほうはサイゴンで「そうさたとえ死の影の谷を歩むとも怖れるまじ、なぜっておれはその谷のど畜生野郎だからよ(この感覚がたまらないんすけどそれはともかく)」と刻ませて弾除け代わりにしてたのですがほんとに実物をみせてもらうとしばらく動けません。またサイゴンマジェスティックホテルから家族あての手紙がまたそのまま残っていて、宿題形式ですがけっこうシャレが利いてたりユーモアが効いてました。ちなみに娘さんには算数の宿題をだしていて、おっぱいの体積を求める方法を考えなさい、とありました。それを内戦下のサイゴンから手紙で送るのがなんかこう文字以上にシビアなものをみてしまった・すごい経験をした反動なんだろうか、ととっさに思っちまったんすが、東京に戻ってこれをかいてるところではやはりシャレなのか、ちょっと判断つきかねてます(もしかしたらこれだけのこと考えられるんだから元気やで、というメッセージか)。なんだろ、文章だけ読んでたんすが、たぶん一面しかみてなかったな、と思った次第。で、おっぱいの件はしばらく考えちまったのですが、あらかじめブラ状の三角錐のものを何種類か用意して柔らかさを利用して計測するくらいしか方法は思いつかず。答えはどこにも書いてません。正解はわかりません。

でもってワインやウイスキーが。開高さんは洋酒の寿屋、いまのサントリーに就職し宣伝部に所属し、晩年までサントリーのコピーを書いてらした記憶があります。

仕事部屋は外から見学。もしかしたら生前そのままなのかも。茅ヶ崎にはがんで死亡するまでの晩年の15年ほど居住してます。本人はがんとうすうす気が付いててドクタに確認してるのですが、告知はしなかったので書きかけの作品があったはず。

あんまり時間があったわけでもないのですが、濃密な寄り道をしちまいました。なんとなく人となりがより鮮明に見えてきて、でも文学畑じゃないからほんと見えても豚にナントカなんすが。いつかもう一度来たいかもっす。


海のそばなので、早足でラチエン通を南下して海辺へ。

わかりにくいかもなんすが、道の先、あいまからうっすら見えるのがエボシ岩です(岩礁)。ここ、なぞでしてこの砂防林の間からみると大きく見えるのです。

でも砂浜にでるとエボシ岩はちっちゃい。錯覚だと思うのですけども。念のためなめた海は錯覚もなにもなくちゃんとしょっぱかったです。そこらへんも確認して東京へ戻りました。