逃した魚のこともしくは「私の開高健」を読んで

私は本をたくさん読んでいるわけではありません。なのではてな今週のお題が「2020年上半期」なんすけど他人にすすめられるほど本は読んでいません。ただ何冊かは読んでいます。

その中に「私の開高健」(細川布久子集英社・2011)という本がありました。著者は開高健作品に魅了され、編集者となり一時期開高健名義の銀行口座のひとつの管理を任されていた人で、内容としては著者から見た開高健に関する証言です。読みはじめてたいしてページをめくってない段階で、代表作のひとつである「夏の闇」の一部を抜粋しつつどのようにしてうたれ・魅了され・言葉を信用するに至ったかを簡潔かつ丁寧に書かれてて、その姿勢に好感を持ち、本を読む時間ができると読みすすめてゆきました。開高健に魅了されただけあって文章に開高さんの影響がかなりあったのですんなり読めた、というのもあります。

これからちょっと品がないことを書きます。

「私の開高健」ではプライベートにもわりと触れられています。代表作のひとつである「夏の闇」がどんな話であるかは実際にお読みいただくとして、開高健特集を組むために細川さんは取材をすすめてるうちに「夏の闇」にでてくるヒロインについて(開高健夫人である牧羊子さんのイメージがあるとしつつも)、状況証拠からするとモデルとなる人物が実在し、その人物は開高家に出入りをし、なおかつ、その実在の人物に作家は本気で恋をしていたようであることがわかってきます。ただし沈黙を守り、この本にて書いています。さらに伝聞として夏の闇を読んだ牧羊子さんが怒り狂ったこと(細川さんは内面に寄りかかって書こうとする作家の業を理解しつつも傷の深さを消すことができなかったのでは、とも書いていて)、さらに牧さんはがんの闘病末期に動けなくなった開高さんには限られた一部の人間を除き面会を許さなかったことも書かれています(細川さんはそれが報復であったのか愛のかたちであったのかと書いてるのですが)。「夏の闇」は料理やセックスの描写もあって奥さんが読んだら怒るかもしれぬ話ではあって、でも開高作品にとって重要な作品のひとつであるのですが、なんだろ、作品が引き起こした悲劇を含む顛末は想像をちょっと超えるところにあったことを細川さんの本で知りました。

中和するようなことを書くと「私の開高健」の中では牧羊子さんが仕事場である茅ヶ崎に一緒に住むようになって帝国ホテルのガルガンチュワやローマイヤでの買い物が減った旨のことも書かれていて、牧羊子さんは作家開高健を食の面で支えていたことにも触れられています。こう書けばたやすいことのように思えますが酒に疲れた胃にやさしい食って考えるとけっこう難しいはずです。

話はいつものように横に素っ飛びます。

去年が開高健没後30年、今年は生誕90年です。晩年に住んだ茅ヶ崎市ラチエン通りにある茅ケ崎ゆかりの人物館で実は「開高家の人々」という展示を去秋から春先までやっていました。隣接する開高健記念館では「珠玉」という作品にまつわる展示をやっていて、そちらと一緒に訪問する計画を立てていました。直前まで「開高家の人々」はどうでもよくて、というのは作家は作品によって評価されるべきなのかな、と思っていたのでプライベートについては私はあまり興味を持てなかったからです。ただ、娘さんにベトナムからおっぱいの容積を求める方法を考えなさいという指示を出してる手紙を以前の記念館の展示で読んだのを思い出し家庭内でも笑かそうとしてたいいお父さんなのかもしれないな、と考えて、(そのときは「私の開高健」を未読でしたが)行く気にはなっていたのですが、残念ながら忙しくて時間が取れず私が茅ヶ崎に行けた頃には新型コロナの感染予防の影響で休館になっていました。なので「開高家の人々」を見逃しています。

品のないことこの上ないのですが「夏の闇」にまつわる顛末を含め細川さんの本を読んで(ブラジル釣行は家族からの逃避だったのだろうかとか)作家とその家族の関係に品のない次元を含め興味を持ってしまったいま、「開高家の人々」の展示を見逃したことが、上半期最大の「逃した魚はデカかったかも」感があります。いまさらですが、ムリにでも時間作って行っておくべきだったかな、と。

アフターコロナとかニューノーマルとかカタカナ語は好きになれないけど逃した魚を考えるとき、去年と今年が同じではないように今日と明日が同じとは限らない世の中になっちまった以上は、興味を持つものが現れたらチャンスを無理にでも作って行動したほうが良いのかもしれないなあ、と。