ドイツでナチスが実権を握ってたころ、いろいろと悪名高い政策が実行できたのはいわゆる「授権法」が成立したからっす。この「授権法」は議会制民主主義をとる憲法下のドイツでナチスが政権を握ったあと提出されました。非常事態にあたって国会から立法権を政府に移譲して政府の制定した法律・政令は憲法に背反しても有効とする内容だったんすけど、法案が時限立法だったせいで議会制民主主義が敷かれてた体制の中で成立したのです。つまるところ法律や手続きを厳守する国でそれこそ法律と手続き厳守して(既存の意思決定システムを経て)ナチスに実権を合法的にドイツ国民は渡したわけっす。で、ナチスはそのあとやりたい放題になるわけですが。
やりたい放題というかいまとなってはなんでそんなことしたのだろう、ってことのひとつに強制収容所への隔離政策があります。
刑罰の本質は犯罪の応報という観点でなく反社会的性格を改善教育するためのものという新派と呼ばれる考え方が刑法学説の中にあります。で、生得的に犯罪傾向を持つ人間ってのは居て、悪い性質を持つから犯罪をする人間が居るというのならば社会防衛と本人の矯正を目的に隔離すべきって言う考え方をとります。この考え方が個人より社会を優先する全体主義であるナチス・ドイツに影響を与えるわけっす。究極の隔離は抹殺なんすよ。で、ナチスは「ドイツ国民の社会防衛のために」隔離政策を行なうわけっすね。で、社会防衛のために隔離されたのがユダヤ人であり同性愛者であり、ロマの人だったりしたんすけど。ここらへんのことは刑法をやると出てきます。
彼らがとった隔離政策も対象はともかくとして「生得的に犯罪傾向を持つ人間ってのは居そうで悪い性質を持つから犯罪をする人間が居るというのならば社会防衛と本人の矯正を目的に隔離すべき」というのは皮膚感覚では私はなんとなくわかるのです。それは「やっちゃいけないこと」「正しくないこと」と思いつつどこか迎合しかねない余地が自分の中にあったりします。
記憶の片隅に残ってたこれらのことをはてな内で読んだナチスドイツに関するエントリを読んで思い出しました。なんで思い出したかっていえば大学生のときも感じたし今回も感じたナチスを否定したくても「どこか否定できそうにない正しさ」に対する恐怖みたいなものゆえです。
ナチスは選挙の洗礼を経て勢力を伸ばし、彼らが出した授権法も手続き上の瑕疵はたぶんないです。瑕疵のない手続を経てドイツは空前絶後の正しくない政策をやってのけました。
で、ナチスのやったことは議会制民主主義とか法律や学説ってのは万能ではないし理屈やシステムが正しくても必ずしも結果が妥当な方向へゆくとは限らないってことの証明です。
妥当な方向へゆくためにどうすればいいのか、ってのもひどく難問なんすけども。