前にも書いたことを繰り返し書きます。
ドイツ史を追うとナチスの時代には社会全体のためにという理由で生命を二分して優劣をつけて異なる措置をしています。たとえば限られた資金や医療スタッフをどうやって生かすかという視点から治癒できない患者を安楽死させる権限を医師に与えててガス室送りにした政策をおこなっていました。さらにナチスは「優秀なアーリア人を残す」ことや「最優秀な人種の繁殖」というのを社会全体のために「国家がしなければならないこと」というふうに根っこでは考えて国民を二分し、性に国家が介入して実行します。ひとつは生物学的に健全とされた夫婦には多くの子供を産むことを期待して政府から貸与金が与えられ子供が増えると返済額を減額する制度ができ、もうひとつは優秀なアーリア人を残せないの男性同性愛者はドイツ国家の維持を妨げる存在として規定され、ドイツ刑法の175条の運用を厳格化し、同性愛者は監視対象となり場合によっては社会全体のために強制収容所行きになってます。
税金という公的資金を投入するかどうかという社会的決定の文脈の中で「LGBTの人たちについて彼ら彼女らは子どもを作らないので生産性がない」という趣旨の与党議員の発言に関しまだ論争が続いていることを知ったのですが、それらの発言や擁護は別に自由なんだけど(この国はどんな思想であろうと発言は自由であるべきです)、国家が性に介入したり、生存する人を「生産性の有無」であるとか「子を産む産まない」といった理由で本来平等であるべき人を二分し、政策面で意図的に行政の費用支出に関して差をつけるのは、社会全体のためによしておいた方が絶対良いことのひとつです。私がLGBTに属するからというわけではなくろくなことにならなかったことを知っているドイツ史を齧ったものとして、いわゆる杉田発言や擁護する意見を軽蔑しています。
答えのない根源的な疑問として、好きで一緒に居るカップルは街中に溢れてるのにどうして2人が同性だとその中のひとつにスッとはいれないのかなあ、というのがあるのですが、多数の人との同質性がない場合にどこかで二分したいという意識を持つ人がいる限りは難しいのかなあ、なんてことをここで考えちまったんすが。