私はここ数年、理不尽なことにどうやって立ち向かうかとかどうやってやり過ごすかとか、答えのない問いををずっと内心考え続けてたので、何かを読むときでもそういうアンテナが何かを受信します。なんべんもかいてますが「黒い雨」で私は自分のアンテナで何かを受信したわけっす。本を読まなくても旅行でも勝手に何かを受信したりします。
旅行というより巡礼中、高知で知ったものに「波供養」ってのがあります。砂浜に故人の戒名を書いて勤行し、それを波が洗うことで供養になるっていうやつです。見たわけでなく、最初ぴんと来なかったのです。そういや水に流すって言葉があるよなー、っていう程度でした。でも坂出の白峯寺、阿波市の切幡寺、そして(一番札所のあとその日のうちにそのままお礼参りに直行した)大阪の四天王寺に「経木流し」ってのがあって戒名などを書いた経木を水盤に流し勤行し供養するってのがあるのですが、「水に流す」っていうことをそれまで頭で理解してたもののその三つの寺で実際に勤行しながら経木の上に水が流れ洗われるのを目でみて「水に流す」ということはこういうことなのか、って理解しました。私の場合はきっかけは死んだ父に対する供養の意味でそれをしたのですが、「水に流す」ってことにつき腑に落ちたのです。それまで、なんでこんなことになってしまったのか、っていうことにつきわだかまりがあったのですが、それがいくらか消えたわけっす。もっとも錯覚かもしれませんけど。
ただそれ以降、私は水に流すって言うことを覚えました。小さな何かがあったとき、自分の中で水を流します。もっともそれでも流れないものもおおいっすけども。