杳々たり

お大師さんに呼ばれた、といえばいいのでしょうか。愛媛にいたのはそのためです。

遡及日誌
☆第一日目

仕事を終えて東京駅から高速バスに乗ると12時間で松山に着きます。さらにそこから松山市郊外の47番八坂寺へ。map:x132.8131y33.7581

前回ここまできたのでここから打ちはじめました。
勤行をしてると、どこからともなく法螺貝の音が聴こえます。終わってからあたりをみまわしても境内に行者の姿は見えなかったです。しかし一キロ離れてないところにもう一つ札所があり、番外札所も近所にあるのでそのどちらかで吹いてるのかもしれなかったです。
真言宗を詳しくは知らないのですが修験道とけっこう関わりがあるみたいなのです。四国巡礼って。だから法螺貝を吹く人がいてもおかしくはないらいしい。


ついで、近所にある文殊院へ。四国には衛門三郎伝説というのがあって、それにまつわる場所です。

以下、衛門三郎について。
昔、松山に衛門三郎という長者がいて、近所の農民から嫌われてた強欲者だったのですが、その長者の家の門前に立った空海が托鉢に来たらしいのです。で、欲深い長者であったので断り続け、続けて訪れる空海の托鉢の鉄鉢をつかみ投げつけると鉄鉢が八つに砕けて飛び散ってしまい、次の日から衛門三郎の八人の子供が次々亡くなり全員が死んでしまった。
衛門三郎は悪行の報いとさとって松山を去った空海を探して四国中を廻り、21回目に回っているときに阿波で病に倒れます。そのとき空海に出会うことができて、許しを請い、次に生まれるときは善政をする領主の子として生まれ善政を行いたいと伝えます、衛門三郎の臨終の間際には空海は「衛門三郎再来」の小石を握らせます。そうすると当時の伊予の領主の子が石を握って生まれたらしいのです。この石を奉納した寺が道後の奥にある石手寺なんすけど。で、当の衛門三郎の屋敷が今の文殊院であったりします。細かいところは諸説あるんですけど、この衛門三郎が一部では遍路のルーツと呼ばれています。


正直、この話を知ったときは違和感があって、たぶん違和感は仏教というものが他人に対して寛容であるべきなのでは?というところに起因しています。仏祖憐れみの余り広大の慈門を開き置けり、という文言のある修証義を読んでた影響でしょう。また、悪行なり信心深くないことがどうしようもない悪であり、苦労するという構図にどこか反発を覚えるのです。これは感覚的なものかもしれません。従わないものに対する冷酷な態度っていうのが徹底してるなと思うし、仏教に帰依しないとこういうことになるよ、という教訓話ではありますが、そこまで強調する必要があるんだろうか、とか考えちまったのです。実は似たような話は徳島にもあって、鯖を恵んでくれと馬子に空海がお願いしたら頼まれた馬子は断ったところ連れてた馬が倒れたとか、空海にまつわる話にはそういった、逆らうものに対する攻撃性がないわけでは無い気がします。空海というのは何者だったのでしょう。衛門三郎のことを知ってちょっと空海像に修正が入りました。もちろん、いい話はあって、井戸を掘った温泉を掘った、住民に喜ばれた、なんてのも転がってはいるんですけれども。また、「許し」ということはなんだろうということを考えちまったんですけど。

場所は違いますが、「お大師さん、伊予の国の衛門三郎がここへ来ました」という札を最初に納めたのがここ、札始大師堂です。




愛媛というと東京の人間からするとみかんのイメイジが強いんですけど、今がみかんの収穫シーズンなのだと思います。立て札があったので一つありがたく頂戴いたしました。

48番西林寺map:x132.8140y33.7935

ここもすぐそばに、空海が錫杖でもって水脈を当てて、松山の人に喜ばれたなんて話があります。
勤行する前に、納札というのを納めるのですが、その箱の上に、ネコが鎮座ましまして、まどろんでいました。勤行の最中、うるさいなあ、という顔をしたあとに不機嫌そうな顔をして、また睡眠の体勢へ。


晩秋のひなたでのまどろみを邪魔され、不貞寝するネコの図↑


49番浄土寺

このあたりで八坂寺から中年女性の二人連れと抜きつ抜かれつのデッドヒート?をしてたんですが、完全に引き離した模様。ひょとしたら道に迷ったか?山道よりむしろ、市街地のほうが道がわかりにくかったりします。で、浄土寺のあたりがたぶん松山市の住宅地のはずれになるんだと思います。
伊予鉄道の線路のそばの造り酒屋に興味があったけど、後ろ髪をひかれつつ浄土寺へ。
山門を写しちまって失敗した気がしますが、本堂は室町時代の建物がまだ残ってます。


浄土寺から繁多寺へ向かう途中の丘陵のみかん畑です。つか、たぶんみかんなんだと思う。思います。みかんなんじゃないかと(←自信ない)。※いよかんである旨指摘が謙介さんよりありました。コメント参照願います。


50番繁多寺です。map:x132.8037y33.8281
すぐそばに八幡様があったところを見ると神仏習合だった時代は八幡様を守る寺だったのでしょう(注:近所にあったのは三島神社で八幡様ではなかったですし、神仏習合の歴史もないようです)。広いお寺です。すぐそばまで住宅化が押し寄せてるんですけど、静かなところでした。小高い丘陵のふもとにあって適度の標高があるので市街地が一応見渡すことができます。
ここで団体さんと鉢合わせ。
でも、納経のとき、お寺のほうで個人優先ということで声を掛けてくださって優先的扱いを受けさせてもらえました。むしろそれはあたりまえですっていう風に、にこやかにうなずいた高知の観光バスのツアコンさんの姿勢もすごいと思いました。夏に来たとき、巡礼ツアーの運転手さんと仲良くなり、いろいろ訊いてはいたのですが限られた時間の中で幾つもの札所を廻らねばならぬわけで先を争うと思うんですけど、若いときに歩かれたのかもしれないとおもいました。方丈さんと思しき方と、そのツアコンさんに一礼して、退出。


寺のそばでなぜか高知の「アイスクリン」を売ってたのですが、冬なので売れるのかな、と思ってたんですが、考えてみたらバスで廻ってる方は温かい暖房の中にいるわけで、案外商売になるのかも。




石手寺へ向かう遍路道。判りにくくて恐縮ですが小高い丘のようなところに松山城が見えるはずなんですけど。判りにくいかも。どうでもいいですが、松山城はここで見たきり、拝めませんでした。せっかく松山まで来てもったいないなーとはおもうんですけど。




51番石手寺です。さきほどの衛門三郎の生まれ変わりが持ってた石が寺宝になってます。map:x132.7963y33.8478
この山門は鎌倉期の建立。
山門に幾つか白い看板が立てかけられてますが、そのうちの一つはミャンマーの軍事政権の仏教徒への弾圧に対する抗議のアピールでした。たぶん、政治的なことに触れてることを書いてた札所は今まで記憶にありません。また、石手寺はわりと「今何ができるか」ということを積極的に考えているらしいお寺です。社会にどんどん関わっていこう、仏教徒としてできるところからはじめよう、という趣旨なのか宗派を超えて法隆寺金閣寺清水寺銀閣寺とともに仏教の理念にあうであろう平和憲法を守ろう、という運動に参画しています。たしか高校生のころに京都の相国寺のトップが「既存の仏教が社会に対して沈黙して良いのだろうか?そんなことはないはずだ」ということを新聞で述べてて印象深かったのですが、それを思い出しました。社会運動に参加する、というのはひとつの方向性として間違っては無い気がします。


なお、ここは道後温泉にほど近く、観光客も多いところです。参道には幾つか店が出てました。



毎度おなじみ?遍路石のコーナーです。

石手寺から道後温泉にかけての遍路道にあったやつですけど、一番上の字がなんなのかがわからない。此方、を崩したのか、もしくは左?さし?日本人でありながら恥ずかしい限りですけど判りませんでした。ここではありませんけど、今回見た中でいちばん古いんじゃないか、と思ったのが嘉永5年というやつでした。幕末のがまだ現役でのこっているのです。


道後温泉裏をへて松山市内を西進します。途中で国道にぶつかり北進の後、夕暮れせまる田園地帯をさらに西進して予讃線を越えてみかん畑の中へ。

みかんを運ぶモノレール?





52番太山寺につくころには完全に夕暮れでした。 map:x132.7150y33.8850
門から本堂までがやたらと距離があって5分くらい掛かったはず。

本堂は鎌倉期の建築で、700年くらい経過。兵火にも失火にも遭わずかなり古い建物が奇跡的に残っています。戦国時代の歴史に詳しくないのですが阿波が戦国時代にかなりやられたのと比べ、伊予は平和だったのでしょうか。

山門には札が沢山貼ってあります。これは「豊後国の何野誰誰」「安芸国の誰野何某」がここに来たという証拠なんすけど、これを「打った」と表現したわけです。遍路はいまでも札所に参拝することを「打つ」というのですけど、これから来てます。今の遍路は特定の紙に書いて納めることで済ませてます。


打ち終わると完璧に真っ暗です。境内の中は照明が有りましたが外は真っ暗でした。県都だからって甘く見てたみたいです。どちらが北でどちらが南かもわからないけど、明るいほうを目指して歩きはじめました。まるで蛾ですね。で、暫らくして歩いてる道が予讃線の駅に近づいてることだけは判り、安心。何とか、伊予和気という駅に到着しました。



この日は松山市内に宿泊しました。どうせならと道後温泉にも行きましたです。今回観光らしいことはここだけの予感になりそうなので、ゆっくりつかってました(湯上りに体重計のったら57キロ切ってたのでいくらかブルーになりましたが)。
私は一番安いコースを選択しましたが休憩できるスペース付とか茶菓がついたりとか、あるみたいです。いちばん安くても東西の浴槽二つは入れました。差があるのかどうかまでは判らずです。けど、片方がこころもち泉質が柔らかかったような、気がしないでもなかったです。


☆第二日目
道後から昨日歩いた伊予和気まで戻ります。
松山は路面電車が健在です。松山駅道後温泉高島屋三越のある繁華街を結んでいます。すごいシステムだな、と思ったのは一回150円なんすけど、伊予鉄ICカードを作れば一日何回乗っても自動的に300円以上にならないのです。下駄履きの気軽に乗れる乗り物、という思想なのか、ちょっと驚きでした。


53番円明寺map:x132.7397y33.8918

太山寺に比べ小さい札所です。ただちょっと変わった歴史が有ります。
この寺には大師堂のすぐ脇に江戸時代から隠れキリシタンのための高さ30cmくらい?のですが石塔とおぼしきものがあり、よくみると何か彫ってあって合掌する聖母マリア像らしきものが見えないことはないのです。よほどその写真を撮ったほうが説明は早いのですが、ちょっと気が引けて撮りませんでした。物見遊山ではないですし。江戸期に遍路にまぎれてこっそり隠れキリスト教徒たちは石塔を崇拝してたのでしょうか。また判ってて黙認してた寺もすごいのですけど。それを考えると言葉がありませんでした。

円明寺を出て一路松山市の北条の街を目指します。井関農機の工場を過ぎると堀江という港町でした。対岸に渡るフェリーの行き先は呉です。ここらへんは南予と違って呉との結びつきが強いのでしょうか。堀江の町を抜けると斎灘を左に見る海沿いの道になりました。遠く島々を見つめながら風に吹かれて歩くのですがこの日の朝はちょっと寒かったです。



松山市北条からは山側に遍路道があります。海側には国道が走ってるんですけど、わざわざ遍路道は山越えるルート設定なのです。伊予北条の街中で一瞬ぎょっとしてあれを登らなきゃいけないのかー、と、ため息をついて撮った写メ。

番外鎌大師
空海がその土地で一族が疫病に伏してる草刈をしながら泣いていた子の話を聞き、子の持つ鎌で木片に自分の像を刻み、これに病気平癒を祈願するようにと言い残し立ち去ったところ、病人は快癒し流行してた疫病も消滅したという伝説から鎌で彫った仏像を本尊として堂を建て、「鎌大師」となったようです。ここは前からお参りしようと思ってたところでした。
現在工事中です。


峠を越えたところです。みかん畑が広がっていました。けっこうみかん畑というのは山の中にあるということを今回いやというほど知りました。スバルの四輪駆動の軽トラはみかん農家のために開発したんですけど、なんか納得。



再び海岸線に近いところに戻ってきました。この日、私は国道歩くのは味気ないので斎灘の海岸べりを暫らく歩いていました。昼近くになって天気が良くなった段階で一枚撮ったやつです。それでもうっすら寒かったです。
向こうはたぶん呉とかだと思います。





松山を抜けて工業都市今治へ。今治市の最初の町、菊間は製瓦の町です。石を投げると瓦工場と瓦にぶつかるくらい。このあたりで昼でした。前夜の道後温泉での57キロ割れがショックでちょっと暗かった。で、朝も食欲なくて抜いてたのですが、ちょっとなんか食べなきゃ、と思いつつも歩いてるときというのは不思議と腹が減りません。とったのは水と自販機で買ったスポーツドリンク一本だけ。けど、なんか食べなきゃ、と思って菊間の中心部でサークルケイを見つけてアンパンとジャムパンをむしゃむしゃ。それと甘そうな森永ハイチュウの乳酸菌飲料を流し込む。ところがこの森永ハイチュウが良くなかったみたいで途中、無人駅のトイレを拝借。ただ、食べ物食べるといくらか元気にはなりました。途中、石油工場があったり「新来島どっく」の看板を見つけて工業地帯なんだな、妙に納得。また、途中、みかんをいただく(おなかの調子があって即はいただかず)。


日がだいぶ傾いてから54番延命寺に到着。 map:x132.9640y34.0669

この山門は、取り壊された今治城を移築したものです。納経所でえらい寒い一日だったのですが、冬は愛媛はこんな感じなのですか?勝手にみかんの産地だから暖かいだろうと思ってたんですが、と訊くと、いやいや今日の寒さが異常、とのこと。


寺を抜けて次の南光坊を目指す途中、お地蔵さんの世話をしてるおばあさんに会いました。気のせいか、今治に入ってからお地蔵さんへの供花が他地域に比べ多い気がします。おまいりさせて貰ったのですけど、この地域、かつて何か有ったのかな、と勝手な邪推。もしくは今治は造船・海事の町なので、海路の道中の安全をねがったのでしょうか?
へんろみちは霊園の中を通るのですが、軍人の墓が比較的多いのに気がつきました。


最初、これが今治のお城なんかな?と思ったのですが、よくみると変。おかしい。で、訊いたら高井城というのだそうです。ほんとはマンションです。

55番札所南光坊今治市街の中にあります。 map:x132.9957y34.0681

寺の境内を生活道路が貫いています。別宮山南光坊が正式名称ですが、ここは神仏習合と関係してきます。隣接する大山祗神社の別宮の別当寺、つまり神社にお祀りされている神様を仏法で守るような意味合いの寺なんすけど。本尊は仏様だけどその仮の姿が神道の神、というものであったりします。神道の神様と仏教の仏様は同じという思想があって神様の本来の姿であるところの仏様、っていえばわかるでしょうか?
大山祗神社というのは今治の沖にある大三島の神社です。日本の総鎮守ということらしい。日本人でありながら神道を実はほとんど判ってないので、大きな口を叩けませんのでこれくらいの紹介にとどめておきます。この日宿泊した宿のご主人は時間があるならぜひ大山祗神社へ参拝したほうがいい、とコーヒーをごちそうしてくれながら勧めてくださったのですが、行けませんでした。なお、かなりの甲冑のコレクションがあるみたいです。
今日はここで時間切れ。


今治大丸で買物をしたあと、今治城だけはちょっと外から見学しました。城つくりの名人といわれた藤堂高虎の築城です。ただ現在の天守は鉄筋コンクリートで作られていています。つまるところ復元したもの。堀の水は海水を引き入れたものですが、これは元からだそうです。


☆第三日目
夜明け前に宿を出て今治市街を後にして56番泰山寺へ。map:x132.9746y34.0503

最初、わからずに通りすごしてしまい、300メートルくらいいってからあれれ?とおもって戻る。朝早かったのですが、既に複数のお遍路さんがいました。境内にはポメラニアンが二匹。納経のあと方丈さんがかまってあげてました。で、間違った様子を見てたのか、何回か廻ってるらしい年かさの方が丁寧に次の札所の行きかたを教示してくださいましたが、なんか恥ずかしい。丁寧にお礼を述べて出発。田園地帯を進みます。


57番栄福寺 map:x132.9773y34.0296

今治市内は幾つか札所があって3キロほどの距離。来る途中に途中で行き倒れた遍路を弔う無縁仏を見つけ、合掌。
市内中心部を外れて山を少し上ったところにあります。この日も寒かったです。簡易カイロを買えばよかったな、とちょっと後悔。

58番仙遊寺 map:x132.9774y34.0133
栄福寺から距離はないですが、作礼山という山の上にあります。途中、怖い思いをしました。今まで大型車の通過するトンネルが怖いと思ってたのですが、九十九折の坂道の急カーブでの退避もおっかないってことを体験しました。ぎりぎりの隙間で退避しましたが、大型バスと肩先20センチないところで向こうがある程度スピードがあると、恐怖です。京都のヤサカのバスなんすけども。せめて前もってクラクション鳴らせよ、とも思う。ただ向こうからすると歩いてる遍路は障害物と一緒で邪魔なのかもしれませんが。

途中、もみじがキレイでした。バスで行ってる人たちはこういう発見、たぶん判らないと思う。

ぶれてるのは、疲れてたからです。すいませんヘタクソで。なお、この寺もお大師さんが見つけた水脈による井戸ってのがあります。

札所のそばから来島海峡大橋をはじめ今治市内が一望できました。


次の札所へ向かう途中、国土交通省松山国道事務所のお役人さんがいて、遍路支援についてのアンケートをとってました。で、ベンチがあったほうがいいかとか、そういう質問もあったのですが、お遍路さんからみて、支援活動を地域の方がしたほうがいいと思いますか?して欲しいと思いますか?というニュアンスの質問があって、それについての誤解を解くのに時間がかかりました。どうも現地にいたお役人さんはボランティアの一環として四国の人が遍路に対していろいろ食べ物や水、宿泊施設を提供してるもんだと思ってたらしいのです。そうではなく、建前としては同行二人といってお遍路は空海弘法大師と一緒に歩いてるのであって、遍路の後ろに見え隠れするその弘法大師に賽銭を渡してるのと同じ意味合いがあるのです。もうひとつ、そういった善意を提供することで代わりにお大師様にお参りしてほしいという意味があります。私はうどんやさんでこっそり「これ、御接待だから」といって代金を半分戻された経験がありますが、すべて次の札所で納めました。善意の提供を受けたとき、そういうとき「南無大師遍照金剛」と唱え、自分の納札を1枚渡します。その納め札を四国の人は実は結構大事に持ってるらしいのです。四国における遍路に対する善意の提供は宗教的意味合いが結構あって、それを廻ってるこちらから望むなんてとんでもない話なのです。実は。そういったことを縷々説明して、わかってもらえたっぽいのですが、問題は、そのお役人さんが上司や上級官庁にどう報告したりするかなんですけど。できれば意見が欲しいといわれて、その場で連絡先を書いた葉書を貰ってるのですが、そういうこと書いて松山国道事務所に送ったほうが良いのかな。





59番国分寺

愛媛県の県庁所在地は松山市です。けど古代の国府今治にあったようで、全国に造られた国分寺の伊予のぶんがここです。
ここでごく普通に挨拶したお遍路さんがいきなり「君は社会に出ても愛されるよ」といきなり大声で声を掛けて来てびっくり。境内にいた数人がこちらに注目。その人いわく、今の人間は、5つの言葉が巧く言えない、それは「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」「ありがとう」「ごめんなさい」だと。君はどういう教育受けてきたか知らぬが、それが自然にできてるからこの先も世の中を渡ってけるよ、と。や、すんませんもう社会にでてます、実は30過ぎてます社会人です、と告白しても、論調は変わらなかったです。かなりの回数を廻ってるっぽい、ご老人だったんですけど、褒めてもらえたので、ありがとうございます、と、お礼を述べました。挨拶ができるくらいで社会を渡れるほど残念ながら甘くはなかったですが勤務先では挨拶は欠かせません、四国でも簡単だと思ってますし思うところあってやってます、それと簡単なことほど徹底することって難しいと思います、というニュアンスのことも伝えました。
白いタートルネックに黒いジーンズというお遍路らしいカッコもしていません。でも四国に来てからは同じお遍路さんや地元の人なんかにすれ違うと必ず会釈や挨拶をしていました。
「生を明らめ死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり」なんてのが修証義の冒頭にあります。生きることと死ぬことと、どういうことかはっきりさせるのが仏教徒としての根本的問題である、なんて意味なんすけど、これも難しいことだとおもいます。別の目的もありますが、それをちょっとでもわかりたいから、四国へ勉強しに来ています。で、修証義の中には「熟観ずる所に往事の再び逢うべからざる多し」、意訳すると、つらつらおもうに過ぎ去った時間は二度とめぐり逢えないこと、って意味だとおもうんすけどそんな文言もあって、じゃ、何をすべきか、ってことを考えると、できることはやるときにやらなきゃ意味はない、って勝手に解釈してました。四国にいるときまずできることは、挨拶なんかな?勉強させてもらってる身としてやらなきゃならんことは、それかな、と思ったのです。「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」、という空海の言葉を私は四国ではじめて知りました。最初何も知らずにこの言葉を知ったとき、人の生き様ってほんとに暗いのでしょうか?と思ったのです。私は30年くらいしか生きてないから正直断言できません。ひょっとしたら暗いのかもしれません。なんだかそんな気がします。だったら、明るくしなきゃいけないんじゃ?とも思ったのです。挨拶ってしたら明るくなりませんか?行く道が枯れかじて寒い暗い道であったとしても、自分ができることはやらなきゃいけないんじゃ?などとうっすら思っていたのですけど。たとえ挨拶しても、その返礼がないことがあります。無視される確率も高いし無駄かもしれないけど、やるだけの価値はあると思ってたんですが。
褒められて妙にこそばゆかったです。


そういうことがあって、目立ったのか複数の人から声をかけられ、情報交換。その後、声を掛けてきた老人に頭を下げて、次の札所へと歩きだしました。


三界の狂人は狂せることを知らず、四生の盲者は盲なることを識らず、生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く、死に死に死に死に死んで死の終わりに冥し。
『秘蔵宝鑰 序』より

この言葉、けっこう考えさせられるのです。誰かに訊いたわけでもなく、勝手な解釈でずっと考えていたのですけど。迷いのなかにいる人は(たぶん)その狂っていることを知らないし、いろんなことを見抜けない。前半部分そういうことをいいたい文章でしょう。生きとし生ける私は、自らが何も見えていないし、そうであることがわからないおよそわかってない状態です。そもそもいろんな人が生きてても、つまり生まれ生まれ生まれ生まれていても、生のはじめは誰もがあやふやで、また、死に死に死に死んで、多くの人が死を迎えても、死のおわりもあやふやで、誰もなんで生きてるのかとか死ぬことはどういうことかとか、そういうことを説明しにくい。そういったことを言ってるのだろうか、と勝手に解釈してました。と、するならば、やはり、平生の姿勢がむしろ重要なんじゃないか、とかおもうのです。
また、この言葉を聞いたときに咄嗟に暗く枯れかじてる道を、とぼとぼ行くような感じをうけて、たぶんそれは井上靖の「本覚坊遺文」のせいなのですけど、利休が何が重要かと問われて只茶湯が肝要と答えたのが、なんか判る気がしたのです。大事なことって目の前にあること、茶道の道を行くものは茶の湯、それに対して真摯に向かえってことなんかな、とはおもうのですけど。間違ってるかもしれません。





今治を出て、伊予西条市内へ突入。ただ、伊予西条市といっても最近幾つかの市を合併したらしく、旧東予、という表示を幾つも見ました。

松山からこちら、水に関わる話が多いですが旧東予にもあって、空海ゆかりの臼井の水、というのを遍路道は経由します。壬生川を経て伊予小松という町を目指します。どうでもいいですが、壬生川とかいて「にゅうがわ」と読むそうです。みぶがわ、と読んで、や、違うんですよ、とたしなめられました。ここらへんから出るフェリーの行き先は関西です。どうも関西との結びつきが強いらしい。



なぜかいた、ダチョウ。ちなみにOK牧場という名前でした。


四国山地の山並みにどんどん近づいてきます。翌日はこの山並みの中に入っていきます。

この日の夜、伊予小松の宿屋で隣室の無神論者(仏は信仰するらしい)、遊び人を自称する初老の男性と談論風発

☆第四日目

朝、やはり日の出前に出立。ただし不要荷物を宿に置かせてもらい、最低限の装備で出発。横峰寺という、難所の山岳寺院の札所を目指します。一日目が27キロ、2日目37キロ、3日目35キロとかなり歩いてるのですが、平地ばかりだったので多少の疲れはありましたが強行しました。私が使ったルートは宿屋推奨のルートでかつて多くの遍路が使ったらしいのですが、今は遍路道としてあまり使われてないので広く流布する先達さんが作った地図に載っておらず、実は現地でも遍路道を忠実にたどるべきとする原理主義的な人から批判されました。詳細の記述を控えますが、気分のいい、よいルートでは有ります。

途中、御来光を拝みます。

9キロ、標高740メートルを3時間で60番横峯寺に到着。 map:x133.1112y33.8379
横峰寺はもともと石鎚神社別当寺、やはり、神仏習合の影響のあった寺です。明治期に独立を果たします。修験道の修行地でもあったようです。

初老の黒衣の貫禄ある女性の先達さんが引率する団体が先に勤行してて、邪魔にならないように待ってから、会釈の後、こちらも邪魔にならないように勤行開始。すると、あとから三々五々わらわらと別のバスで来たらしい団体さんがやってきて灯明をつけたりをはじめる。こちらが勤行してようとしてまいとお構いなし。中年の先達さんの合図で老若男女中央に陣取って、大きな声で勤行をはじめる。心境複雑なんすけど、仕方ないのかなあ、とおもってたのです。ところが、すげーと思ったのは、この団体遍路さんたちが一糸乱れぬ調子で御詠歌を力強くうたいはじめました。それをきいてちょっと鳥肌がたったのですが、ほんとは信仰って実は原始的ですごく強いものって側面もあるよな、と、再確認させられました。心から力強く「帰依します」っていう歌をきいたのは、四国へ来てからここがはじめてでした。

信仰って何なんだろう、とか考えたのですけど、石鎚から帰京しても考えてますが、よくはわかりません。衛門三郎のように何かしら背負っていたほうが帰依の重さはあるかもしれません。贖罪を背負って深く帰依して信仰に生きるってのも、アリなのだとおもいます。またそうでないのも、アリでしょう。うたう団体遍路さんには迷いがなかったように見えて健康的で、そう考えると信仰って人を救うこともあるのかもしれません。
前の、衛門三郎の話は、実はひょっとして入り口の問題に過ぎないのでしょうか。ただ、ほんとに信仰って、人を救うっていいきれるのでしょうか。衛門三郎は四国を廻って救われたのでしょうか。彼が見たものは、どういったものなのでしょう。贖罪で押しつぶされそうな気がします。私は幸か不幸か、背負うものはあってもしんどい贖罪の意識はありません。やはり信仰も、意味を問うと、どこか不確かなところがあるとおもうのです。道をいい道をいうに百種の道あり、と空海は述べました。で、そのみちはどこか

杳々たり杳々たり甚だ杳々たり 
『秘蔵宝鑰 序』より

なんだとおもいます。杳々としてるから、力強く帰依をうたったり、もしくは何度も廻ったりするのだと思うのです。


今はまだ、巧く説明できないんですけど。





横峰寺本堂から星ノ森へ。

単に祠があるだけのシンプルなところです。修験道の開祖、役行者小角が石鎚山を遙拝してると蔵王権現が現れた、というのですが、霊性といったものに疎い私はただキレイだなーと思っただけでした。
鳥居が写ってるの判りますか?石鎚山は崇拝対象です。山ではありません。神がおわします場所なんでしょう。ここまで来たらほんとは石鎚山も登ったほうがよいと思ってるのですが、諦めます。
次の札所へは約10キロ、山を降ります。

 



61番香園寺map:x133.1023y33.8934

88の札所にも色々な寺がありますが、たぶんいちばん立派な建物かもしれません。現代的って言えば良いのでしょうか。えっと、ここは本堂はすぐわかったのですが、空海をまつる大師堂がありません。あれれ?どこだろう、と寺の人に訊くと、一緒にまつってるんですよー、とのお答え。本堂ではなく、大聖堂といいます、ともやんわりといわれました。
ちなみに子安講という宗派の総本山です。日本全国から信者が集まります。子安大師というほうが認知度が高いようです。
どうでもいいですが、ここの悪口を聞かされてはいたのですけど、そんなに悪口叩かれるほどの扱いは私は受けませんでした。






62番宝寿寺map:x133.1149y33.8972

61番のすぐ近くにあり、1キロあるかないか。で、普通の寺です。普通の寺ってのはなんですが、総本山でもなく神仏習合でもない、吹けば飛ぶような小さなお寺です。でも、団体さんに鉢合わせ。納経所でツアコンさんは関西弁で一生懸命阪神の藤川のことを話しかけてました。けど、お坊さんはどこかけんもほろろ。途中で団体さんの納経をストップし、すまんが個人を優先させて、といってどうぞー、と声を掛けてくれましたが、なぜか私の後ろにいた老婆が順抜かしで前にでてきてびっくり。その老婆をお坊さんがやんわりと制して、納経。

寺を出て、預ていた荷物をピックアップするために宿へ行きました。お礼を述べると、はやいねー、と女将さんに言われる。登り3時間下り3時間なんすけど、ほんとはもっと時間かかるみたいです。これを見て横峰登山する方なんか居らんと思いますが、もうちょっと時間的に余裕をお持ちください。私の足がちょっと早足です。


63番吉祥寺map:x133.1292y33.8961

ここも普通の寺。1キロあるかないか。どうでもいいですが私を先にしたせいか団体さんの納経はバスの発車に間に合わず、藤川の褒めてたツアコンさんが風呂敷に荷物を抱えて全速力で国道を走ってバスで追っかけてくのが見えました。悪いことしたかなー、とちょっと心が痛かったです。ここで前日宿ではなしこんだ、初老の男性に再会。違うルートで、途中までタクシーで行ったらしい。私のとらなかったルートだと、美味しいコーヒー屋が有ったらしいです。御来光拝めたから良いのですが、その美味しいコーヒーもちょっと心残り。


64番前神寺map:x133.1595y33.8920

今度は普通の寺ではありません。修験道の道場です(修験道の何たるかを語れるほど詳しく知りませんが)。境内がやたらと広かったです。横峰寺同様、役行者小角が関係してきます。神仏習合の寺です。とはいえ、本堂などは普通の建物でした。ただ森に囲まれた、霊性の有りそうな人ならなにかを感じることが出来そうな寺です。私は鈍なので何も感じはしませんでしたけど。ここで、昨日の初老の男性と別れます。下町の出身で、年上風吹かせない不思議な人でした。滅多にできない経験を積ませてもらえましたありがとうございましたとお礼を述べ、今生でお会いすることはないと思いますけど元気で、といって固く握手。

寺を出て、参道を歩いてると、バスから降りてきたお遍路さんのなかの中年女性がわざわざ私の前に出てきて挨拶してきました。たぶん、どこかの札所で挨拶した私を見かけたのでしょう。その人に記憶がないし、なんだかびっくりしたのですが、ちょっと感動しました。



夕闇せまる中、伊予西条の旧市街を目指します。


伊予西条駅には日が暮れてから着きました。
ここで戦術的後退をはかります。体力的なものと、日程の都合で伊予三島駅まで電車で移動しました。

☆第五日目

実は来年の春には88寺を打ち終えたい、と松山に来たときから考えていました。来年の春に法事があってその前に間に合わすことは絶望的なのですが、春と呼ばれる段階には阿波へ戻れればと思ったのです。ほんとは全区間歩くのがベストですし、そうあるべきなんでしょうけど、理想ばかりも言ってられません。伊予西条から伊予三島まで約一日で行けると思いますが、時間を節約しました。お金と休日の都合もあります。機会があれば電車に乗った部分を歩きに来たいとはおもいます。

この日も夜明け前から行動しました。次の札所はまたもや山の中です。

煙突のあるあたりに泊まってました。朝6時に出てみかん畑の中をこれだけ登ったのですが、さすがに昨日の横峰寺登山とそれまでの疲れが残っててこの日はスローペースでした。途中、寺に勤める方の通勤?時間帯だったみたいで、歩きながらアドバイスをいただいたり雑談をしていました。

65番三角寺map:x133.5862y33.9682
およそ二時間で着きました。山の中の寺です。先にオートバイで到着してた寺の人はキミ若いのに案外遅いなー、と一言。無理ですよう、鍛えてないのに一日平均30キロを歩けばガタがきます。食欲不振にもかかわらず無理やり前日食べたらすべて嘔吐してしまい、あまり体力もない状態でした。なおここは、安産や子授けにご利益があるといわれてます。若い女性が子供を連れて参拝してました。

三角寺を出て山中をさらに歩きます。讃岐へ歩いてるのですが、土佐街道の標識がありました。ここらへん、讃岐、伊予、阿波、土佐の国境が近接してます。写真の右へ行けば土佐、左が讃岐、直進すれば阿波、戻れば伊予です。

棚田です。なんで青々としてるのだろうこの寒さでも育つのか、二毛作なんだろうか、と漠然と疑問に思ってたので地元の人に訊くと、何のことはない、刈り取った稲が完全でなく、勝手に生えてきて出穂してるのだそうです。


番外札所椿堂に着きました。実はここは二回目です。ブログをはじめる前に既にここから80までは歩いてるのです。
愛媛最後の札所をおえました。菩提の道場、愛媛の札所はすべて廻ったことになります。菩提の伊予で智慧を得て、いくらかは私は進化したのでしょうか。不安がないわけではありません。次は涅槃の道場、香川です。涅槃とは即ち、煩悩を断じた理想の境地のことなんすけど春先にそんな境地に達することができるのでしょうか。甚だ不安ではあるのですが。

このあと、徳島との県境の近くまで歩いてバスを拾い、神戸経由で帰京しました。

ながながと、まとまりの無い文章を読んでくださりありがとうございました。