南予巡礼

第一日目
前日八重洲を20時半に出る夜行バスで高知入りし(朝8時前着)、土讃線の特急に乗り継ぎ、更に中村で一両編成の各駅に乗り換えて10時半に宿毛の到着し、そこからバスで愛媛入りし、愛南町平城というところについたのが11時過ぎでした。
およそ14時間くらいの移動です。



前回ここまで来たので今回はここから出発します。で、本堂の中に売店があるんです。私が本堂の中で参拝し、読経しているその一メートル後くらいで甲高い声で中年のおばさんがお守りの吟味をはじめました。私は案外勤行のときはキチンと発声しててたぶん響いてるのだと思うのですが、それにも負けないくらいの音量です。こちらが何をしてるか判っててやってるのでたぶん、嫌がらせか、年下に配慮は不要と思っているのでしょう。私はどうしてもこの手のおばさんが苦手で、かかわり合いになりたくないし、口論もしたくないので自分のペースを最後まで守りました。こういっためぐり合わせも、受け入れなきゃなのです。遍路中は。もっともこういう扱いを受けて腹立たしいのは私がまだ凡人であるからでしょう。






山門は200年前のものです。
平城山観自在寺、が正式名称です。桓武天皇の子の平城天皇が勅願(天皇が直に発願して)で作った寺でもあります。薬子の乱(弟の嵯峨天皇との皇位を巡る抗争)の後、仏門に入るときの剃髪の髪塚なんてものもあったりします。













参拝の後、宿毛街道と呼ばれる国道を北上します。目指すは宇和島です。
八百坂峠というところのなだらかな坂をあがりはじめた途中で、アンパンとハッシュドポテトジャスミン茶というメニューで道端に座ってると、自転車で60がらみのおじさんが近寄ってきました。会釈すると自転車から降りてきました。
以下、会話の抜粋↓おぼろげながらの記憶
お四国さんか?(遍路のことをお四国さんともいう)」
「はい、そうです」
「どこから来た?」
「東京です。昨夜の夜行で高知入りして宿毛からバスで前回打ち終えた観自在寺まできて、そこから歩きはじめたばかりです」
日焼けした精悍な顔つきの頑固そうなおじさんです。一呼吸置いてから
「最近は歩き遍路が少なくなっての、みんなバスや車で廻りよる。昔はみんな歩いたもんなんだがな。歩かないとご利益が無いときまっとるのにの」
「なるべく歩きたいですけど、しかし、仕事ある人間はまとまって休み取りにくいからバスを使わないと正直やっていけないです。私も実は室戸の手前で日程の都合でバスに乗りましたし。ああ、バスツアーは確かにどうかと思うときはありますが、あれとて、体の調子の悪い人には巡礼のチャンスができて朗報だとおもうんですよー」
「体の具合が悪くてもそれを克服せにゃ。もしくは諦めるか」
「けどしかし、帰依心は一緒だと思うんです。たぶん。入り口の問題というか」
その答えに納得したのか、もしくはおよそ議論にならないと思ったのか、わかりませんがじっとこちらを見た後に一笑し
「まあ、ぼちぼち歩きや、がんばり」
といって自転車にまたっがって去ってゆきました。
えっと、あるべき遍路論というのは議論が尽きないと思うのです。難行・苦行を求めるか、楽するか、というのはそれぞれ自由であるべきで、苦行を選択してもそれを自慢してる限りは必ずしも何も得られるものは無いかもだし、楽しても菩提心があるきっかけで起きたりとか、何か得るものがあることが無いとはいえないと思うのです。私はそもそも供養のためという側面はありましたが、御利益を得ようとか、自分のために廻ろうとか、修行の為に廻ろうとかは一切考えてなくて(悟りを期待する修行というのがなんかイマイチ判らないのです)、ただ札所で読経して、四国を歩いて、ということが重要であって(期間とか格好は関係なくて)そのことに意味があると考えていました。こういう考えが妥当かどうかわかりません。

このおじさんの一言はずっと頭の中にこびりついていました。
全くなにが云いたかったか、わからないわけではなかったので。


暫らくして気がついたのですが、自殺志望の若者かどうか見分けるために議論を吹っかけてきたんかなー、と思い至りました。考え過ぎかもですが。
仏教の信仰を持つものの礼儀として礼拝の次第は順守してきましたが、私は服装に無頓着でした。白いタートルネックに黒のデニムです。しかしお遍路さんは、菅笠、白衣、お杖、半袈裟(輪袈裟)4点がけっこう必須であると、説く人が多いです。参考画像を載せておきます。
私はこの4つのいずれも持ってません。外観上お四国さんと判らないので疑われてもしょうがないかもです。








八百坂峠を越えると眼下に海が広がりました。海の向こうは大分でしょうか。デジカメのCCDがいかれてケイタイのカメラで撮ってて画質がよくないですが、黒いぶつぶつは島です。また、海が濁ってるように見えるのは真珠の養殖イカダのようです。ほんとは海がきれいです。(←えっと、途中であった地元の人に訊いたのです)


同じく室手というところ。棕櫚か何かとさくらが珍しいかなと思って撮りました。



愛南町柏というところで撮った桜です。チャットで云われるまで気がつきませんでしたが、空がきれいですねー。全然気がつきませんでした。




愛南町柏というところから国道を外れて江戸期から続く遍路道に入りました。遍路道って云っても、昔の生活道路です。宿毛から宇和島に抜ける旧道です。峠越えの旧道ですね。
尾根を少し過ぎた所から海側を見た光景です。入江がいくつもあるのは由良半島というところです。500m近い山を越える道が旧街道だったわけです。最短ルートなのでしょうけど昔の人はもう少し海岸沿いを迂回しようとは思わなかったのかなーと。 しんどくないといったら嘘になりますってなくらいの坂でした。

日没が何時くらいになるか判らず、で、急ぎながら峠を下ります。こういう道で夜になると足許が危険かも、とおもいました。この道、たぬきが化けてでるらしいのですが私は逢いませんでした。美形美男子?らしいんですけど。


峠を降りきったところで、玉葱栽培の農家の軒先にでました。お四国さんだよね?と確認を求められました。で、お四国さんと判った時点で峠はしんどかったろ、水をのんでけ、と、飲み水を分けてもらいました。善意がちょっとうれしかったりします。
ご主人が東京にいたことがあったらしく、今、運転免許の試験場はどうなってる?と訊いてきたのでひょっとしたら警察関係だったのかもしれません。



基本的に生活道路をあるかさせて貰っているときは、黙礼でもなんでも挨拶をします。向こうが声をかけてきたらこちらからも改めて声に出して挨拶します。それが鉄則だったのですが、いや、自転車に乗ってる中学生や高校生が散発的に50人くらいいて、それがこちらに向かってくるわけです。対面で。あちらが挨拶したらこちらも挨拶しますが、みんなする。全てに返答したつもりですですけど、向こうは一回挨拶すれば楽でしたでしょうが、こちらは50人以上でしたのでしんどく無かったっていったら嘘です。疲れたので田植えを見ながらペットボトルの水を飲んでました。するとチャイムでドヴォルザークの新世界が流れてきました。遠き山に陽は落ちて〜というやつです。夕暮れ時に近かったのでなんかしんみりしてきました。
小学校入学以来東京で大半を過ごし、京都や名古屋に居たこともありますが田植えとは無関係な環境にいました。東京の多摩地方には水田はありません(水はけが悪いから)。で、はじめて田植えというものを見ましたです。といっても、コンバイン?というのを使ってるのを遠くから見てただけですが。




芳原川という川に沿って、桜が植えられています。考えてみたら4月8日は灌仏会でした。たぶんその頃に桜も満開だったかもしれません。ちょっと散ってしまってます。
歩きながら先ほどのおじさんの言葉をけっこう真剣に考えていて、つまるところ、1200年以上前に空海が歩いた道を、似たような体験をしながらつまり歩くことにこだわることに意義があるのか(それって執着じゃないのか?という気がしてならなかった)、それとも、そうではなくて、模倣ではなく各個人模索しながら歩くのが良いのか、とか、です。この問題は見解がおよそその二つにわかれるのかな?という気していましたが、どちらが正しいとかそう云う問題じゃないよなー、ということをうっすら感じていました。あ、何をもって正しいというのかという定義すらあやふやなら永遠に答えが出ないよなー、とも考えてました。帰依心があって、バスであろうと歩きであろうとそれは入り口の問題じゃないかなーという咄嗟の結論は間違ってないんじゃないかなー、という気がしてきたのですがわかりません。
帰京した今も答えは出ていませんが。





ありがたいことに宿毛街道は街路灯が有りました。6時過ぎくらいに日が沈みはじめました。ただ宇和島までもうちょっと有って、松尾峠というところを歩くのを断念し、峠のトンネルの入り口でバスをひろいます。で、峠のトンネルを抜けてからバスを適当なところで降り、宇和島市の旧市街地に入りました。
夕飯はファミレスでとりました。魚と肉を回避してるのでごぼうの唐揚げとご飯です。








第二日目

宇和島出身の偉人に児島惟謙という人がいます。
政治家はよく評価されますが、裁判官はあまり評価されませんけど、この人は評価されても良いと思う人です。
明治時代に滋賀県大津市で来日中のロシア皇太子を巡査が切りつけるという大津事件が起こります。その巡査の裁判に際して政府はロシアへの体面から法律の解釈に無茶があるのにもかかわらず裁判所に対して死刑に処するように求めました。それに対し大審院長として圧力に屈せず、司法権の独立を守りました。また大阪で捕まった別の事件の犯人に対して時の政府が死刑にする法律を作ったのですがこれを適用せず、法律不遡及の大原則(→処罰される行為は予め法律で規定しておかなければならないのであって、ある行為が行われてからのちにその行為はよくないからといってそれを処罰するための規定を後から作って、その規定に基づいて処罰することは許されないという原則)を確立した人でもあります。権力による一切の干渉を排除し三権分立の信念を貫き通した人です。幾許かの法学をかじった人間のはしくれとして実はその人の所縁のものや資料館でもあれば見学したいと思ったのですが時間がなく断念しました。
また宇和島は伊達家が治める城下町でした。実は歴史のある街で城もあれば立派な庭園もあります。しかし観光しに来たわけではないのでそれらをすべてすっ飛ばして先に進みます。ちゃんと見たのは宇和島駅前の闘牛の銅像だけです(スペインの闘牛と違って牛同士が闘います)。
余裕のない男は嫌われますが、ほんともったいないことをしてるなーという自覚があります。
いつかこれたらいいのですが。


5時過ぎにおきて素泊まりで投宿した宿を出たのが朝6時過ぎ。春とはいえ朝は冷え込みました。テレビの天気予報で宇和島が最低気温が6度なんていってたのですが日陰に入るともっと寒かったです。いくら歩いても体が温まらない。で、市内のローソンに入りメロンパンとあんぱんとホットレモンで朝食をとり、暖をとってから再出発です。
北宇和島駅を横目に予土線というローカル線沿いの県道のゆるい坂を上りはじめたところで坂を逆に下りてくる宇和島市内に通うらしい小学生、自転車組の中学生や高校生の登校時間にあたり始めました。三々五々やってきてすれ違いざまの挨拶です。昨日もそうでしたが誰一人として挨拶を省略しません。私は小学生のころ見知らぬ人に挨拶なんぞしなかったくちですが、なんかこう、こういうところに育つとどこかで人生に差がつきそうな感じはします。正直、まともに挨拶してるとこちらはしんどいのですが、彼らの通学路を拝借している立場ですから手を抜きませんでした。





ゆるい坂を上りきると田園地帯に出ました。こちらはまだ田植えがはじまってませんでした。


写真は新旧遍路石です。道しるべですね。かたちがナニかに似てるほうが古い石です。自然の石を利用してるほうですね。なにぶんケイタイのカメラで見ずらくて恐縮ですが方角を示す手の形が彫ってあります。わかるかなー。ろ、の字もうっすらわかると思うんですが。
この道しるべがいつ作られたかはわかりませんが江戸時代には巡礼者がいて、巡礼者が迷わないようにと遍路石はあちこちに設置されています。明治期の遍路石は結構まだあちこちに残っています。


41番稲荷山龍光寺です。
名前に稲荷が入っていますが、ここは同じ敷地に神仏が一緒になっています。稲荷さんへの参道に寺がありますって感じです。



補足すると神仏習合というのですが明治維新までは神仏はあまり区別があるようなないような状況でした。神と仏は一心同体と考えられてて、数年前の大河ドラマを見た人はわかるかもですが義経は南無八幡大菩薩というのを口にしてたはずです。神仏習合の影響で八幡様と仏教の菩薩が一緒になっているのです。で、日本史でやったと思いますが明治時代に全国的に廃仏毀釈運動が起きて神道が仏教と袂を分かつようになります。ただここはそれがなかったわけです(寄り道すると浅草の浅草寺の隣に三社祭浅草神社がありますが三社祭は江戸時代はもともと浅草寺と一体となった祭りでした。浅草神社は明治期に浅草寺と袂を分けました。さらに付言すると愛知の豊川稲荷は神社のようにおもわれますが今でもれっきとした曹洞宗の寺です)。

ご利益があるから参拝する、という目的からすると別に神仏を一緒に、というのは理解できなくもないですが、しかし我々はご利益があるからといって信仰を持つのでしょうか?
たぶん答えのない問題かもしれません。正直私は否定的でした。
ただ、そんなことを考えるのは寝食ともに足りてる現世に生きる人間の思い上がりかもしれません。たまに猛威を振るう四国の苛烈な自然環境を考えるとき誰だって神仏にすがるだろうな、というのは理解できます。不安を慰撫する仏教という意味で、ご利益があるから、というのはなんか否定できない気がしてなりませんでした。


次の札所へ向かう途中の県道に植えられたチューリップです。一キロぐらい続きます。宇和島市三間というところです。地元の方が植えてます。すごいですねー、と正直な感想をとうりすがりの方に挨拶がてらのべると、秋になるとコスモスを植えるんよ、と教えてもらいました。


42番仏木寺です。
本堂前で勤行しようとしてると、隣接の大師堂に先客がいました。たぶん地元の、声のよくとうる80がらみの普段着のおばあさんです。丁寧に勤行されてて邪魔にならないように勤行します。そのおばあさんの勤行が終わってから大師堂に移動。おばあさんに「お勤めご苦労様です」と声をかけたら別のおじさんが反応する。
あんたじゃねえ!
けど、おばあさんにはこちらの趣旨はわかってくれたみたいで会釈される。


以下、朱印をもらう納経所での印象的なやりとり↓
おぼろげな記憶ですが。朱印をもらうのに300円かかるものの、ちょうどの持ち合わせが無く、1000円札を出していました。
「すいません持ち合わせが無くて」
「あ、ちょっとまってね」
といって奥からこちらを見ながら100円玉をだしてきます。
「間違いがあったら困るので確認してください」
といって1枚2枚…と数えます。で、6枚目までが100円玉でしたが7枚目が50円玉でした。
「7枚目が50円玉でした」
たぶんわざとなんでしょう。ニヤニヤしながらこちらを見ます。
「ああ、ほんとだ」そういって今度は100円玉を出そうとします。
「いや、50円玉でかまいませんです」
そう?そうなら、といって50円玉を二枚出してきました。100円玉6枚と50円玉2枚です。
5秒ほど沈黙し、暫らく布の上でにらめっこしながら「一番最初に出していただいた、これでけっこうです」と宣言して100円玉6枚と50円玉1枚を受領しました。
意外そうな顔をして「いや、この50円は君のだ」
「じゃ、寄進させてください。寄進というか、浄財というか、奉納というか」
そういって相手の顔を見ると破顔というのでしょうか、にこやかな顔をしてこちらを見ていて、「わかった」といって引っ込めてもらえました。お手数おかけしました、と一礼してから納経所を後にしました。
たぶん試されてたのかなー、と思うんですが、実は寺の方の真意がわかりません。からかわれてただけかもですが、とするならば、後に6〜7人も待たせてすることではない気がしました。後の人にそのやりとりを見せたかったのか、それともこちらの人物試験でもしたかったのか。


この先に難所がありました。歯長峠という峠です。42番仏木寺からしばらく歩いて、車道から昔からのへんろ道に入るとだらだらとした登りが徐々にきつくなります。ここだけはネットで予め予習してきてて、ほんとにきつくなりそうな手前で大休止をしました。東屋が整備されててそこで休んでいると仏木寺で追い抜いたらしい中年男性と一緒になり、ちょっとした雑談になります。一度この峠を越えたことがあるらしく不安があったので次の札所まで同道してもかまいませんか?とお願いし、快諾を得ました。そんな話をしてると今度は中年の女性が、更に別の中年の男性が現れ合計4人で峠越えと相成りました。ほんとに大休止していたら、更に地元の農家の方が遍路用にと置いていく商品にならないミカンや夏柑の交換に当たり、夏柑を接待にいただきました。
大休止のあとは4人で峠越えです。いきなり更に急になり、200メートルくらいを鎖つかまりながら登ります。その急勾配さえとうり過ぎれば普通の峠でした。
実はこの峠、昭和40年代後半まで生活道路として地元の方が使われていたらしいのです。トンネルが出来るまでは三間というところと、西予の卯之町を結ぶ唯一の道だったらしいようです。


すぐそばを高速道路の建設工事がすすんでて、ちょっとした議論になりました。私は公共財としての道路について採算性でもって評価するのはちとおかしいのではないか?という立場でしたが、やはり中年の社会経験豊富な方は建設に否定的でした。しかし、遍路に出てまでいったい何を議論してるんですかね。
ついでに昨日の、愛南町で出会ったおじさんの発言について感想を求めると、云わせておけば良いんだよ、と切って捨てられました。




43番明石寺です。
運悪く、団体さんのバス遍路にぶち当たりました。三つくらい同時に来ていたのです。で、案の定、こちらにおかまいなく、三々五々わいわいと灯明を建て、線香を建て、で、あったりします。慣れっこなんですが。
そのバス遍路の中に足の不自由なおばあさんがいました。階段がだめなので境内の中でベンチに座りながらですが、勤行です。
それがまた、なんというか、美声でした。
思わずそちらに目を向けているとバスガイドさんはあのおばあさんは90過ぎてるんよ、とささやいてきました。昔、水商売をやってたみたい、芸妓さんだったみたい、とも。ついでにいうと同道してきた中年の男性はこのおばあさんに呼び止められ、歩いてきたのかい?とたずねられうなずくと力強くにこやかに握手を求められたそうです。


私はやはり、なんというかこのおばあさんを見て、バスであろうと歩きであろうと、あまり大差ない気がしてきました。入り口の問題に過ぎないんじゃないかなーと。帰依心があるなら仏の前ではだれでも平等で、歩くのは決して悪くはない行為ですが、それが絶対ではないのではないかと思い至りました。バス遍路でも、明石寺でであったおばあさんの信心が歩いた遍路よりもより強固な気がしたからです。


ここで峠越えの4人組は解散しました。最後に納め札を交換して自己紹介をして(実年齢をいっても信じてもらえなかったのですが)、今生でお逢いすることないかもなので、といって固く握手してお別れです。


明石寺をあとに西予市卯之町へ向かいます。






卯之町の旧市街地です。卯之町宇和島街道の宿場町として栄えた町です。幕末から明治の家並が残ります。ちと風情のある町です。






今回はここまでです。予讃線上宇和駅です。無人駅でした。ここから松山まで行き、夜行で帰京しました。
またいつか来れる日がくらばいいのですが。



最後まで御覧頂いた方ありがとうございました。
四国というのは個人的には何度きてもそのたびに強烈な体験をして帰ることになります。今回もまたそうでした。
癒しがどうの、といった言説もありますが、私は癒しの地だとは思っていません。勉強の地だったりします。

このブログをきっかけに四国に興味をもたれた方がいらっしゃいましたらご連絡を。や、ご連絡いただいたとしてもしょうがないかな。説明より行かれたほうがどういうところかほんとよく判ると思います。