数週間前に知人から電話が有って、今、仕事で京都にいるけど、という内容でした。京都に来れそうで、かつ、逢えたら逢えないかな、というニュアンスです。
で、京都へは行きませんでした。
自分の問題として逢ったら断ち切りたいものも難しくなるかな、と思ったからです。やせ我慢というのもあります。や、いったって何も起きないかもですけどね。


恋愛等において敗北を喫する場合、答えはシンプルなのです。
引き止めるだけの魅力も無いのです。力不足なのです。その事実の前に、百の言葉を費やして何かをいったとしても無駄なことは自明です。たぶん、私にそれなりのアドバンテージや魅力があったなら、もしくは少しでもあったなら、他人と結婚なんてチョイスはしなかったはずで、結婚することにした、と、彼が報告したとき、淡々とその事実を受け流しました。本気だぞ、と、追加で云ったからには止めることを期待してたのかもですがそれもしなかったです(ただし式には本気で出たくないんだけど、と一ヶ月前まで駄々はこねた)。

どこかで振り向いて貰え続けるのは無理だろうとわかりつつも、なるべく気に入られようとか考えて衣服を考えたりとか、やめろといわれた気がつかないうちにしていたらしい上目遣いを直したりとか、相手にその見返りを期待するのはその多寡に関わらず危険な事だとおもいつつ、いくつもの隠れた努力をやってみたもののアドバンテージになりえず、事情があって向こうにすべてを合わすわけにもいかず。諦めが簡単につくかといったらそんなわけもなく、もらった時計やCDを捨てることもできず、なるべく考えずにしてはいるけど消去しきれるものでなく、メールが途絶えるわけでもなく、完全に嫌いになるわけもない。
で、別の人をチョイスしたことに何の葛藤も無かったか、といったら嘘になります(暫らくしてから酒量が増えた)。実は昨日、ブログをやめる前にそれを吐き出したらどうか、というサジェスチョンを受けたのですが、そのつもりは全くありません。
自分の力不足を棚にあげて、何かを吐き出して何か得になることがあるか、と問われたらないような気がします。第一、かっこ悪いことできますかいな。


一般論としてたぶん物事をシンプルに考えることは可能です。それはそれで悪くないはずのことです。人間というものは基本的にそんなふうに頭が働くように出来ているのかもしれないともおもいます。たいていの物事はそれで案外すんなり流れていくものだったりします。ただシンプルにはできずに割り切れず、ふと洩れてしまう声があるはずです。それが嘆きか、別のものかわかりません。その声を冷静に分析して見解をつけて他人に見せることは役に立つこともあるかもです。しかし、その単なる声を垂れ流すことに羞恥心を私は覚えます。また同時に自分のことほど冷静に分析するというのは、こっぱずかしいと同時に困難かとおもいます。