慣習と平等と

大きな声では言えないのですが、私はゲイ関係の運動にまったくコミットしてきてません。ブログでもあまり述べていません。ほんとインクローゼットの人間で、陰でこそこそ言うのはどんなもんかなー、と思ってたからです。ただなんとなくもやもやしてることはあるので書いておきます。先月成立したカリフォルニアにおける同性婚否定のための州法改正の住民投票についてです。いまさら書いても時機を逸してますが。


今回のことのきっかけは今年、カリフォルニア州最高裁が同性間の婚姻を禁止するのは州憲法に反すると判断したことからはじまります。


当然、カリフォルニア州内では同性婚はOKになったんですがカリフォルニア州では他の州から来たカップルの婚姻届出も受け付けてたので、同性婚が認められてない州に住んでる同性カップルカルフォルニアに来て婚姻届を提出しに押し寄せるようになりました。それを眺めてたカリフォルニアの人からすると、同性婚を認めるというカリフォルニアの婚姻制度はいったい誰のため?っていう疑問が湧いてきてもおかしくないのです。
で、キリスト教的なものの見方はやはり今でもアメリカ社会に影響はあるはずです。神と同じくらいに人権を神聖不可侵なものとして扱うことでアメリカ社会はなりたっているんじゃないかと思いますが、でも人権と同じくらいにアメリカの場合はやはりキリスト教から来る規範ってのが幅を利かしてるんだろうな、ってのは推測がつきます。大統領がいろんは宗派の国民がいると知っていながら「God bless America」とか平気で言っちゃう国です。聖書に出てくるような旧来の家族観ってのはなかなか崩れてないはずです(同性婚を否定するためのお題目としてのキリスト教的な「あるべき正しい婚姻制度を守るべき」という主張はかなり利いたのではないか、と思います)。


そういう環境で、同性婚違憲じゃないというなら州憲法を変えて同性間の婚姻を州憲法で禁止しよう、っていう主張はそれなりに説得力をもってきます。


カリフォルニアの場合は住民投票で法律を修正したりすることができます。住民自治住民投票制度というのはそこに住んでる住民がより良くするためのものという趣旨なのですが、カリフォルニアに潜在的に同性愛者が多数いて同性愛に寛容であって、てなら話は別ですが必ずしもそうではないところに今回の結果としての悲劇があります。もっとも、正確に書けばほんとはまだ悲劇じゃなくって、婚姻というのは男女間でするものであるとしたほうが、よりよいカルフォルニアになるって判断が過半数を占めちまった、ってことに過ぎないのですが。その事実が浮き彫りになったことでより怖い悲劇はこのあとくるのかもしれませんけども。



ただ社会的に正しいことと、その社会で当座優先しなきゃいけないことって、相容れないことってあるんじゃないかな、と思います。で、「理屈上の社会的正しさ」を守るべきなのか「その地域の固有の慣習」を守るべきなのか、どちらを守るかってことなんでしょうけども。社会は平等でなおかつ差別は有ってなはならないのなら同性愛者だからといって制度の適用外にして排除するってのは考えれば考えるほと変なんすけど、カリフォルニアでは「婚姻についての理屈上の正しさ」よりも「カルフォルニアの地域の古来からの慣習を守る」ことを優先したのだとおもいます。私は今回のことで旧来の慣習を守った保守的な人を批判するつもりになれないです。というのはカルフォルニア州民がだした「その地域の古来からの婚姻の慣習をまもる」って選択はそれほど間違ってない気がするのです。気がするだけで、答えは巧くまとまらないっす。強いていえばその地域にある慣習を無視した制度が妥当かっていったら、妥当じゃないんじゃ?っていう程度しかいえない。



余談ですが、同性婚をなんで同性愛者が求めるか、って場面を考えてみます。
パートナが病気になったときや死亡したとき、婚姻制度という法制度を異性愛の人は利用してれば一方のパートナを親族として当然に法的に扱います。でも同性間の場合実態は「婚姻生活」といわれるものと同じで婚姻意思そのものががあっても制度としてないから法的な保護を得ることができません。親族と扱われないことが何を意味するのかというと、単なる他人として法的には扱われることになります。配偶者と同様であってもです。
現行の日本の婚姻という制度しか知らないので大口は叩けませんがそもそも婚姻という制度は共同生活を送るカップルのためのものではなく本来的に生殖行為を行なうカップルのための保護の目的が強いと思ってます。で、ともかく相続とか、医療費控除他政策的なメリットなんかを婚姻届を出せない同性間の共同生活を送るカップルに認められず婚姻届を出した異性間の共同生活を送るカップルに認められるのはほんとにおかしいのか、合理的であるかないか、ってのが、同性婚を認める認めないの境目でしょう。


私はそこらへんあまり不合理だと思ってないです。カップルのあり方をとりあえず4パターンにわけて考えます。

1婚姻届出を行い、生殖行為を行い、共同生活を送る異性婚カップル(社会的保障濃)
2婚姻届出を行い、生殖行為を行なわないけど共同生活を送る異性婚カップル(社会的保障濃)
3婚姻届出を行なわない、生殖行為を行なわない共同生活を送る異性間カップル(社会的保障薄)
4婚姻届出ができない、生殖行為を行なわない共同生活を送る同性間カップル(社会的保障薄)

そもそも「病める時も健やかなる時も、ともに手をたづさえて歩むこと」が婚姻の本質でありながら、婚姻という制度が政策的に1の「生殖行為を行い、共同生活を送る異性婚カップル」の支援を特に重点をおいてるので法制度自体が生殖活動を積極的に行なわないカップルが居る現況とはちょっと乖離があると思います。でも相続については配偶者の割合が増えたりしたので変わりつつあります。
で、確かに2と4を比べると不公平感があります。
ただ、法律上の婚姻の制度を選択しないけど互いに貞操義務を守るような3、4のような「公式記録にみえない婚姻状態」は犯罪でもないし違法でもなく現に存在してます。現実に共同生活をおくるカップルの事実上の婚姻状態ってのは法的に保護されない部分が法的にあったりしますけど本来は「病める時も健やかなる時も、ともに手をたづさえて歩むこと」が婚姻の本質なら法律上の婚姻の制度を選択しないことは必ずしもおかしくないし、4は1や2に比べ3の存在を考えると不合理かっていったら、そうではないのではないか、と思うのです。
もっとも、感覚的に婚姻ということばにひどく憧れますし、同性愛者がカップルになったことを公的な記録で残したい、ってのはすごく判るんすけど。
で、3と4の未届婚姻と、1、2の届出主義の婚姻との差は制度として公的記録が残るか否かの差と社会政策的な給付や税制面についてです。仮に何とかするとしたら、4だけの同性婚だけでなく3と4を一緒に解決しなければならないはずです。


フランスは向こうの言葉でいうコアビタシオンという同棲非婚カップルの権利保護の民事連帯契約法を作ることで婚姻とは違うかたちで3と4を救済するというアクロバット的解決したりしてます。たぶん自由博愛平等というのを徹底したかったのではないか、と思うのですが。


本来的に他人の人生を否定する権利はだれにもないと思うしだれもが望むように生きる権利を持っています。差別があってはまずいわけで平等は徹底されるべきものでしょう。でもその理想と現実の折り合いをつけるのってひどく大変そうだな、ってのが、カリフォルニアの件をみてて今更ながら痛感しました。