四天王寺

まったくの余談だからいままで書かなかったのですが四国一番を打ち終えて大阪へその日のうちに行っています。徳島からバスで舞子までゆき山陽線に乗りかえ、快速に乗ったのですが三宮を出た後に急病人が発生しました。その場に居合わせた人が緊急ボタンを押し居合わせた数人で一緒に救護に当たりつつ六甲道の駅で急病人を駅員さんに引き渡したのですが、そんなことをしていたら大阪駅についたのが予定時刻をかなりすぎちまってました。
目的地は四天王寺です。

大阪駅で急ぎ足で市営地下鉄に乗り換え四天王寺へ向かったものの四天王寺についたら4時を過ぎていて、いざ勤行の用意をしようとしたら周囲はもう片付けの準備モードなのです。え?え?もう閉門なのかな、と不思議に思って訊けば大阪市には不思議な条例があって文化財のある場所ではなぜか4時以降は境内が火気厳禁になるらしく灯明も線香を供えることができないらしいのです。脳裏に先ほどの六甲道の件がよぎりましたが過ぎた時間はいまさらどうすることもできません。そもそも四国と同じ5時までダイジョウブのはず、と思ってたこっちが甘かったわけで、途方にくれたあと、仕方ないかー後日にしよう日を改めて大阪にこようとおもってリュックを背負ったら四天王寺の方が声をかけてくれ、長いお線香ではないのでしょ?すこしくらいならいいよ、と大目に見てくれることに。
勤行のあと、声をかけてくれた方にあいさつに行き厚意のお礼と納め札をだしながら四国のお礼参りに来た旨を伝えたら一呼吸置いてからに一笑して
「お疲れ様でした」
と一言声をかけてもらえました。


布施という言葉はよくお金に絡ませて語られもしますが言施和顔施といってにこやかな笑顔もなにげない一言も布施行の一種だったりします。お寺の人はそれこそ当たり前のことをしたに過ぎません。私は別に誰かにその言葉をいわれたくて巡拝してたわけでもないです。でもその言葉をかけてもらったときは不意の一撃だったせいもあってかなんだかことばがでず、そしれなぜか感極まってなみだ目になっちまって(見知らぬ人の前で泣くということは父親が死んでからずっとそんなことしなかったのですが)、もらった言葉に「ありがとうございます」とのべるのが精一杯でした。
感極まると、ほんと人間って言葉って出てこないもんです。
四国でのこともそうですが、四天王寺での出来事も死ぬまで忘れないと思います。


はてなのなかで言葉を海に降る雪であるとか種子であるとかいろんなものにたとえるエントリをみかけて、なにかにたとえることが私の場合できるだろうか、といったらなにも浮かびません。たまにものすごく効く言葉に不意に出会うことがあって泣かされることはあったりしますが。

強いていえば「言葉」って周囲を照らしたりする「灯明」だとは思います。真っ暗闇の中なんもなかったら歩きづらいですがなにか光があると楽だったりします。
私は四国や四天王寺、そしてそれ以外の人からも分けてもらった灯明をもって暗闇をあるいてるんではないか、と思えることがおおいせいか、そんなふうに考えてるんすが。