よく人や行動や発言を批評したがるって人がいます。
細かい分析によってなるほどなーと思わされたこともあるけれど批評のうちの何割かは気に食わないんだろうなー、と思うようになりました。随分前、関係者の思惑の思惑や利害が複雑に絡み合った状況でこちらも精神的にぎりぎりの状態でなんとか仕事をやりくりしてある仕事でそこそこの結果をひねり出し関係者がある程度満足したのではないのかな、なんて思っていたら全く関係しなかったある先輩が暫らくしてから楠田(仮)は単独プレーで前例のないことをやった、組織としてどうよ、なんてことを遠いほうから言い出したのです。その場の判断で事後承諾的側面のことがいくぶんあったので「忠告って真摯にうけとめなきゃ」なんて思ったり、前後を知ってる先輩や上司や後輩は「気にすることないよーそういうことしかあいつは目に付かないやつやねん」なんていってくれたものの、なんとなく頭を後ろから鈍器で殴られたような感じでした。その人の云うとおりにしたら巧くいったか不明で、失敗したら何も言わない可能性が高かったのですが、どっちにしてもどうも目立ったのが気に食わなかったご様子で、なんのことはない、その批評は目の前で起きたなんとなく気にくわない事の解消法なんだろな、と思った次第。
それ以来自分にとって気に食わないことに関してとか、もやもやを解消するために誰かを人って批評するってことはあるのではないか、と思うようになった。気にくわないだけで悪意があるんじゃないんでしょうけどやられたほうは「たまんねぇ」し、見てるほうもきくほうもどこかしんどい。
批評を言う自由っていうのはあって当たり前です。でも単に二言三言批評するのは稚拙なだけなんじゃないかとも思う。批判批評って簡単なんですよ。正解がないものなら尚更で、バカみたいに簡単で、どんなふうにだって言えます。卵焼きにたとえれば、火加減でも味付けでも文句言えますし、批評するほうはえてしてどういう卵焼きが良いのかなんていわないし、実現可能かどうかを検討することなく理想と違う!と批評するのが常だったりします。批評って言うより稚拙な好き嫌いの表明じゃないかなー、と思う。
他人からの稚拙な批評なんかに反応してたら胃がやられちまうし気にしないほうがいいには決まってます。タフでなければ生きていけないと思ってるので、摩擦を避けるためにいくらか鈍感になってみようとは思っててある程度はその思い込みのお蔭か生きてはいけるけど、しかしそのうちにどうしても看過できないものもあります。そういうとき相手が稚拙な表現で何か言ってきても相手は稚拙な表現しか出来ない程度だから気にすることはないなんて考えるものの、なんでこちらが「適切な表情で倫理的にふるまう」ことを強いられなきゃいけないのか、と、どこか脊髄反射的に考えてしまう。そんなふうに全然鈍感になってないときがあります。
別に誰かから稚拙な批評を受けたとか以外の、過去を思い出して寂しさが一杯のときとかもそうなんすけど、鈍感になりたいと思うときに限って自分を鈍感にするスイッチってのがどこにあるかわからないので、感情をどうやってコントロールすべきなのか、途方に暮れることがあります。コントロールの仕方をそろそろ本格的に探さないとまずいかなと思ってるのですが、なかなか見つかりません。