やっちまいがちなこと

この前書いた評論のようなものの続きのようなものですが。
他人と会話したりしてるときにいくつかのことを気をつけるようになったきっかけのCMがあります。


小学校の図工の時間に机の間を歩く若い先生がいます。ただひたすら、わき目も触れずに塗つぶしに夢中の子供がいました。何を書いてるのか、見当がつかないです。

それをみて先生や両親は不安がるのですけど、子供はひたすら画用紙を塗りつぶします。大人は戸惑い、子供は病院へ連れてかれます。
あるとき机の中のジグソーパズルのピースを先生が見つけ、病院では看護婦さんが少年の書いた絵を整理する途中で絵が偶然に重なり、それがヒントになります。体育館に集まった大人たちは少年の絵を並べていきますって云う公共広告機構のCMです。


私は大人たちが理解した瞬間に不覚にも涙がぼろぼろでてきちまうのですが。

この子の発想、なんで途中まで気づかなかったかといえば、先入観と固定観念が有ったからだと思うのです。先入観と固定観念っていうのは、いろんなものを邪魔します。はては病院送りにしちまうのです。先入観や固定観念を排除するのはやたらと難しいと思うのですが、そのモノサシで「わからないもの」としちまうのはすごい危険だよな、とつくづく思うのです。やっちまいそうなのですけども。


また、何年も前にこのCMをみてから、誰かの説明や理解を求める議論や表現に納得していなくとも、納得できなかったことだからといってなるべく「訳がわからない」と切って捨てるのは私はとりたくないと思うようになりました。できてるかどうかはわかりませんけど。私が「訳がわからない」からといって、誰にも「訳がわからない」ではないはずだからです。たまたま頭の悪い私が「訳がわからなかった」だけなのかもしれないのです。他の人にはきわめて重要な根幹に触れる大切なものかもしれず「ほんとは理解して欲しいという気持ち」を踏みつけにしたらまずい、と思ってるからです。
それと自由競争の原点は何かといったら、自由競争をしている「相手のことをお互いに慮る余裕」と「同程度の知的水準」があることってのがあったはずです。確かアダム・スミスで大学の一般教養レベルの知識だとおもいますが間違ってたらごめんなさい。けど、自由競争に限らず自由な言論を語る上でも「相手のことをお互いに慮る余裕」というのは普遍的ルールだと思うのです。「わけわからない」として相手を全否定しちまったら、フェアじゃないのです。相手を拒絶した時点で病院送りにした大人と同じ土俵に立っちまうのではないかとどこか思うのです。


先入観や固定観念を排除するのは難しいのは承知です。
で、相手のことがよくわからなかったといって全否定し、理解できなかったことについて、相手の責任にしちまえば楽です。そういう態度を取っていれば安心は得られます。相手のせいにしちまえば自分は賢いと思っていられますし、プライドは保てます。
けど、何もそれは解決してないし、危険なことなんじゃないのかな、と、たまに思うのです。もちろん実害が無きゃそういう態度でもいいんですけど。