性別変更時の手術に関しての動き(静岡地裁浜松支部の判断について)

なんどか書いていることなのですが、いましばらくおつきあいください。

性同一性障害者の性別の取り扱いの特例に関する法律」というのがあります。「性同一性障害者」の場合は一定の条件を満たして家裁に家事審判を申し立て、家裁が許可をした場合に戸籍の性別を変更することが可能です。ただ第3条に条件があり、条文上は二十歳以上であること、現に婚姻をしていないこと、現に未成年の子がいないこと、生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること等が必要です。性別変更に生殖機能の除去等を前提としているのでいまのところは性別変更後に女性であった人が戸籍上男になったあとに母になる事態は原則として有り得ません。また、元女性の男性が女性と結婚し、第三者からの精子提供を受けて子を得ることに法律上の制限はありません。ただ、女性に性別変更した元男性が女性でなかった頃に冷凍保存した精子を用いて性別変更後にパートナーとの間に子を授かった場合(そのこと自体は制限がないものの)、その父子関係に争いが無いわけではありません。

現状では基本的に「性別変更に関しての審判のためには手術をすること=生殖機能を除却する手術が必要」です。しかし法律の適用のために一定の手術を強制的に課すわけで

十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

という条文を持つ憲法13条に反するのではないか?という訴訟がいままで無かったわけではありません。実際に最高裁まで争われ、生殖腺機能の除却等は平成31年時点では憲法13条等には違反せず、合憲であるというという判断が裁判官全員の一致でなされています(最判H31・1・23・判タ1643号74頁)。

このときの最高裁の判決要旨等を読む限り、性別変更後に性別変更前の生殖機能で子供が生まれれば親子関係で社会に混乱が生じると指摘しつつも(つまりどちらかというと男性が子を産む事態は避けたいといってるものの)、生殖機能除却の規定は身体への侵襲をうけない自由を制約する面もあることは否定できず、さらに生殖機能除却に関しての趣旨は社会の混乱を避け急激な変化を避けるための配慮ではあるものの、その配慮は社会の変化に伴い変わりえるものとして「合憲かどうかは継続的な検討が必要」とも述べてます。加えて裁判官2名の補足意見のなかで違憲とはいえないが「憲法違反の疑いが生じていることは否定できない」とも指摘していました。

さて現在の「性同一性障害者の性別の取り扱いの特例に関する法律」における性別変更に関しての審判のためには手術をすること=生殖機能を除却する手術が必要であることについて、憲法13条違反になるかどうかについて、11日付けで静岡地裁浜松支部違憲であるという判断をしています(13日付毎日)。19年の最高裁が性別変更後に性別変更前の生殖機能で子供が生まれれば親子関係で社会に混乱が生じるとした点については「まれであろう」とし、生殖機能を除却する手術について「意思に反して身体への侵襲を受けない自由を制約するもので、人権制約の態様や程度は重大」とも指摘していて、どちらかというと社会の利益より個人の利益に目を向けた判断で、けっこう踏み込んだ印象があって唸ってしまってます。

余談ですが、浜松とは別個の事案なのですが、岡山で手術なしでの性別変更を申し立ててる審判があり(岡山家裁および広島高裁岡山支部は変更を認めえなかったので)最高裁第1小法廷に係属したあと22年に裁判官15人全員が参加する大法廷への回付を決めています。教科書的なことを書くと法律などが憲法に適合するかどうかに関してのあらためての判断を必要とする場合などに大法廷回付がなされるので、性同一性障害者の性別変更の手続きにおける手術に関してはいままでとおそらく異なる判断をする可能性が出てきています。

以下、個人的な雑感を匿名を奇貨として書きます。繰り返しになるのですが平成31年の上記の裁判の補足意見を読んで「手術を受けるか否かは自由な意思にゆだねられるべき」というある判事の意見に恥ずかしながらはっとしていて、以降「個人の意思を尊重するにあたり手術を事実上強制することが妥当かどうか」というとわたし個人は疑義を持つようになりました。ので、浜松支部の判断は妥当であると考えています。ただ、仮に生殖機能を温存したまま意思だけで性別変更が認められるとなると間接的に「男性とはなにか」とか「女性とはなにか」という答えのない問題と地続きになりかねないのでいくらか厄介で課題が無いわけでは無く、しかし少数当事者だけに手術を求める≒自由を制約することが好ましいとも思えずにいて、どうするのが正解なのか恥ずかしながら答えを出せずにいます。

私のことは横に置いておくとして、繰り返しますが以前に比べて社会の利益より個人の利益を優先する傾向を一部とはいえ裁判所がとっていることは間違いなく、社会がぬるっと動いてるのかも感があったり。