『中世の風景(下)』を読んで(もしくは鐘について)

いま住んでいる街には修道院が二つあって、その修道院のどちらかは朝になると鐘が鳴ります(それが聞こえる)。その鐘がどういう意味かは訊いたことはないけどお祈りの合図なのではないか、と想像しています。話がすっ飛んで恐縮なのですが・短絡的で恐縮ですが、小さいころからあんまり視力が良くなくて一時期駿河台の病院に通っていてぼんやりした世界の中で聴こえてきたのがニコライ堂の鐘で、あの鐘はなんなのかと死んだ親に訊いてあれは礼拝のはじめと終わりに鳴らすもの、と教えて貰ったからです。しかし住んでいる街の修道院は終わりの鐘はないしそもそもロシア正教ではありませんしどの宗派も鐘をならすとはかぎらぬはずで、ですからあてずっぽうです。恥ずかしながら、聞こえてくる鐘というものについて最近まで考えたことがありませんでした。

考えたことがありませんでしたと書いたのは、最近『中世の風景(下)』(阿部謹也網野善彦石井進樺山紘一著・中公新書・1981)という本の冒頭の「音と時」という章立てのところに、鐘を含む中世の欧州や日本における音の話が書いてあって、その章を読んだあとに「あの鐘はなんであったのか?」「あの鐘はなんのために置かれていたのか?」というのをあれこれ思い返して考えてしまったからです。

本書では阿部さんが欧州では朝の鐘は祈りの鐘であるほかに、市の門が開く合図であり昼間の火災予防の意味を持っていることを触れ(P7)、慣習にしたがって土地を差し押さえるときに鐘を鳴らしたり土地の所有権移転に際して鐘を鳴らしたことも指摘しています(P16)。鐘というものが祈りのほかに法的行為と関わっていたことが興味深いと感じたのですが、そういや法に関係するロンドンの国会議事堂やミュンヘンの市庁舎はいまでも鐘が鳴るわけで、妙に腑に落ちています。

対して日本では、網野さんが備中の土一揆の際に鐘を鳴らすことになっていたことに触れ(P14)、石井進さんが伊賀では敵勢が攻めて来たら鐘を鳴らす掟があったこと(P15)や(先行した研究事例を紹介する形式で)応仁の乱のあたりの土一揆もしくは徳政一揆の際に鐘を鳴らしたこと(P268)など日常とは異なる非常事態を告げるものであったことを紹介しています。以前住んでいた街では平成のひと桁あたりまで商店街の真ん中の空き地に火の見やぐらと半鐘があった記憶があって、そして千曲川の氾濫の際に長野で半鐘を鳴らして避難を呼びかけた報道を思い出して、あれはもう何百年と続いてるものだったのか、とこちらも腑に落ちています。

歴史がいまに至る過程だと考えれば当たり前のことかもしれないのですが、そこらへんを改めて再確認したというかなんというか。でもって、訊いたわけではありませんが、近所の修道院は法とは関係ないし緊急時には鳴りませんから、やはりお祈りの合図ではないかと。

『中世の風景(下)』は他にも「農閑期になにをしていたのか」であるとか「漂着したものは誰の所有とするべきか」という些細なしかし重要な事柄のほか、売買や賃借についてや、利子の考え方など私にとっては時間泥棒的な興味深い事柄が多々書いてあり、かなり勉強になりました。しおり代わりのレシートをあちこちに挟んだうえでメモを取りつつだったので1冊読み終わるまでけっこうな時間を要しています。

さて、更に恥ずかしいことを(恥じらうおっさんなぞ見たくないとは思いますが)。

「鐘は、本来、浄化する作用と持つとされていましたからね」(P11)という阿部さんの指摘を読んで、3番などマーラーの曲の中には鐘とおぼしきものをそのような効能を前提に使ってるのがあったよな、と思い出し、いくつか引っ張り出して聴いたりしていました。そんなことしてるから余計に時間がかかってしまったのですが、読んでる本の中で鐘のように記憶にある音に関する記述があると、ああそういうことあるかもしれない…と、つい確認したくなったりすることってないですかね。ないかもですが。